吉野 裕之


匂ひ鋭(と)く熟(う)るる果実をわが割(さ)くをまどろみのなか夢に見てゐつ

成瀬 有『游べ、櫻の園へ』(1976年)

 

夜(よ)の雨の気配なぎ来つ樹々ふかくひそみて鳥も息づくらむか

めくるめくまでにこの身を遊ばせて陽(ひ)のにほひ鋭(と)き叢(くさむら)にゐつ

サンチョ・パンサ思ひつつ来て何かかなしサンチョ・パンサは降る花見上ぐ

匂ひ鋭(と)く熟(う)るる果実をわが割(さ)くをまどろみのなか夢に見てゐつ

マウンドに立ちし一瞬むなしさをなにがなし今宵思い出(い)でつも

たゆたひやまざりこころさゐさゐとたださゐさゐとこの夜(よ)しぐるる

 

「歌はただ語りかけたいものとして僕にはある。その答に何ほどの意味がなくてよい。ただ歌に聞いてほしい」。成瀬有は『游べ、櫻の園へ』の後記にこう記す。

たとえば三首目のサンチョ・パンサは、小説「ドン・キホーテ」の登場人物で、主人公ドン・キホーテの従者。もとは農夫で、無学ではあるが、いろいろな諺を引いた物言いをする。しかし、こうした知識をもっていなくても、サンチョ・パンサ、サンチョ・パンサと繰り返されることによって、なんだかとても悲しい感じになる。「ただ歌に聞いてほしい」。何を聞いてほしいのか、ではないのだろう。聞いてほしいという思いが、一首を形づくっていく。

 

匂ひ鋭(と)く熟(う)るる果実をわが割(さ)くをまどろみのなか夢に見てゐつ

 

「匂ひ鋭(と)く熟(う)るる果実」。この果実は何だろう。むろん、わからない。わからないからこそ、「匂ひ鋭(と)く熟(う)るる」という様態がくっきりと立ち上がってくる。具象が抽象を経て、具象に返ってくることによってその度合いを強めている、ということだろう。「まどろみのなか夢に見てゐつ」。まどろみは、いわば向こうとこちらのあわい。夢も、いわばあわいの出来事。〈私〉は、2つのあわいに身を置きながら、果実を割いている。

あわいは不安だろう。そして、希いだろう。美しい一首だと思う。「歌の持つ音楽性、それは鎮魂と招魂の韻きというべきでないか、僕はひそかにそう感じている」。成瀬は、後記にこんなフレーズも置いている。