喜多昭夫『青霊』(2008年)
日照雨(そばえ)ふる夏の埠頭に花骸(はながら)のごとき自転車は倒れてゆけり
カリフォルニアからの手紙を海こえて来しはつなつの蝶と呼ぶべし
海の辺の電話ボックスにて君はうつくしかりし夕映えを言ふ
こうした作品を収める最初の歌集『青夕焼』(1989年)から20年ほどの時間を経て、喜多昭夫の4冊目の歌集『青霊』はある。『青夕焼』は20代半ば、『青霊』は40代半ばの上梓である。
ほつかりと息づくごとし側溝に吹き溜まりゐる花びらの量(かさ)
石段をすこし離れて登りゆく光を漉して葉桜さやぐ
ゆふぐれのあちらこちらで音がするふくらむものありしぼむものあり
半透明レジ袋ゆゑうつすらと中身の見えてこれはアボガド
音楽を聴くごとく君の心音に耳あててをり外は粉雪
みどりごは銀河のやうにかたはらに置かれてしづか秋の産院
砂丘(すなおか)に僧あらはれて歩みゆくわが青春の悔いのごとくに
手つなぎて夕棚雲(ゆうだなぐも)を見てをりつ智紀(ともき)はひだり結哉(ゆうや)はみぎ(詞書:長男次男)
身(しん)病むと心(しん)病むことの差異ほどに淡雪はつか軒を濡らせり
生活の具体をていねいに拾いながら、しかし作品の手触りや質といったものは変わっていなくて、だからこそ生活の具体を拾おうとするとなんだかぎくしゃくしてしまうのだけれど、たとえばこうした作品をきちんとつくっていく。20年を経ても喜多は変わっていない。だからそれが、とてもたいへんなのではないか、そんな気がするのだ。
拾ひたる落葉は星にかくも似て一つの旅をわれは終へたり
旅とは、定まった地を離れ、よその土地を訪ねること。それはひとときのこと。だから、旅には終わりがある。
「一つの旅をわれは終へたり」。実際の旅なのか、何かの比喩なのか。おそらく後者なのだと思う。旅と思える何かを終えた〈私〉。「拾ひたる落葉は星にかくも似て」。たまたま落葉を拾った。それが星にとても似ていた。それは大きな驚き。それをもって旅を終わりにしたのだ。この落葉を拾わなければ、旅は終わらなかったかもしれない。
それはどんな落葉だったのだろう。いや、こうした問いは意味がないのだ。「星にかくも似て」と〈私〉が認識した、そんな落葉なのだ。だから、〈私〉にしかわからない。むろん、どんな旅だったのかということも。
ただ、星のような落葉だったのだし、それを拾うことによって終わった旅だったのだ。読者は、そのことだけを受け取ればいい。そのことだけに共感すればいいのだ。