魚村 晋太郎


ながめつつながめ尽くせず夏暮るる樹樹の繁りのやどす表情

大塚寅彦『声』(1995年)

夜の秋、という夏の季語については前に書いたが、秋の暮、そして、暮の秋、という季語もある。
秋の暮は、そのまま秋の夕暮れのこと。暮の秋、というと秋の終り、晩秋をさす。
同様に、暮の春、暮の冬という季語もそれぞれある。
夏の終りのことは、夏の果(はて)、とか、逝く夏、とかいうことが多く、手許の歳時記には、暮の夏、は載っていないが、傍題として載せている歳時記もあるかも知れない。
和歌の時代には、夏の暮、で、夏の夕暮れではなく、晩夏をさした例もある。

一首の、夏暮るる樹樹、は、夏の夕暮れの樹樹なのか、晩夏の樹樹なのか、迷うところもあるが、後者の意味に読んだ。
陽のかげる夕刻の樹にも独特の表情はあるが、夏の終りのまだ眩しい陽射しのなかに濃い緑を風にそよがせる樹の表情を思い浮かべたのだ。
ながめ尽くせず、という表現も、季節の終りと読んだほうがぴったりくる。

晩夏の樹樹の緑は、初夏のころの緑とはまるでちがう。
貪欲に光を求め、旺盛に濃い緑の葉を繁らせた樹樹。
その一樹一樹に表情のごときもののあることに主人公は気づき、それをながめている。
樹樹の表情は刻刻と変化し、うつろいゆく季節の表情はけしてながめつくすことができない。

夏の表情といえば、夭逝した小野茂樹の次の歌を思い浮かべるひとも多いだろう。
  あの夏の数かぎりなくそしてまたたつた一つの表情をせよ
一首に、樹の字と、繁り、という音が使われているのは、小野茂樹へのオマージュなのか偶然なのかはわからない。少なくとも、繁り、と字を変えているのは、此見よがしのオマージュにはしたくなかったからだろう。
いづれにしても、樹樹の表情を詠った一首の向こうには、ひとが人生の晩夏に出会う様様な表情と、そのうつろいながらすぎてゆくさまが、あぶりだしのようにひろがってきはしないだろうか。
立秋をすぎても暑い日はつづく。
そして、空の色や樹樹の姿にすこしづつ、秋の表情は見えはじめる。