江戸 雪


横抱きにしてベッドまで運ぶ母野菜に近き軽さなりけり

小高賢『液状化』(2004年)

「横抱き」で何を抱くか。

売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき  寺山修司

寺山は「柱時計」だった。さらにこの「柱時計」は売られていくという負荷がかけられていたため、読者はいろんな方向から感情移入をし、「柱時計」はさまざまなものに置き換えられて読まれる。寺山のこの歌は「横抱き」の普遍的な哀しみをあらわした。

「母」はじぶんで歩くことができない。ほんの数メートルの移動でさえ、体ごと持ち上げられて運ばれるしかないのだ。
家のなかで、それは男の仕事なのだろう。「母」を「横抱き」にしてそのからだを移動させた。
この「横抱き」にもやはり、寺山の「横抱き」の哀しみが漂ってはいまいか。

そして、ここではさらに、哀しみとひとことでいってしまえない、生命の尊さや限りある時間の重さ、儚さなどが混じりあって、脳裏に強烈な場がうかぶ。
このリアルさは、「運ぶ」という客観的な表現もひとつの要因だろうが、それよりも「野菜に近き軽さ」の現実が胸に迫ってくることによる。

この結句、目を閉じて何度もくりかえす。
「軽さなりけり」。