一ノ関忠人


遠き代の安倍の童子のふるごとを 猿はをどれり。年のはじめに

釈迢空『海やまのあひだに』(1925年)

                                                                                                                                                            *安倍に「アベ」、童子に「ドウジ」のルビ。

 正月の歌から今年の一年をはじめよう。失われた正月の光景である。釈迢空・折口信夫に歳末年始の歌が多いことは、注目しておいていい。新聞や雑誌の依頼もあるが、「ハレ」の日の歌を大切に考えていた。この歌は1919(大正8)年の「大阪朝日新聞」元旦の紙面を飾った。 

  猿曳きを宿によび入れて、年の朝 のどかに瞻(マモ)る。猿のをどりを

  年の暮れから泊まっていた宿に猿曳きを呼んで、正月らしい時を過ごす。「摂津安倍野で育った安倍の童子なる狐、それが子別れをして、和泉の信太の森へ帰ってゆく」(「自歌自註」)。その一節を猿に舞わせた。それが猿曳きの芸であった。「信太妻の話」には、靖国神社の境内にかかっていた猿芝居「葛の葉の子別れ」についてふれている。それは、おそらくここで歌われた「遠き代の安倍の童子のふるごと」と同じようなものであろう。

 「右顧左眄の身振り」、「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」――猿のパフォーマンスが想像できるだろう。迢空は「猿曳き特有のあの陰惨な声が、若い感傷を誘うた」ともいう。

ただ、「もう猿引きなどが、正月に訪れて来ることはなくなったように、見聞きしない」(自歌自註)と迢空が言うように、今ではほとんどみかけることのない光景である。

 猿回しが、いわゆる被差別民の生業であったことは、筒井功『猿まわし 被差別の民俗学』(河出書房新社)が各地をめぐり、文献を探り、広く調査をあきらかにしている。同書によれば、猿回しの本来の職掌は、「牛馬舎とくに厩の祈祷にあった。猿は馬や牛の病気を祓い、健康を守る力をもつ」と考えられ、「猿まわしは猿を連れ歩き、牛馬舎の前で舞わせた」という。「大道や広場、各家の軒先で猿に芸をさせ見物料を取ることは、そこから派生した芸能であった。」

 一度滅びた猿回しを復活したのは山口の「周防猿まわしの会」の力によるが、各地に私たちが見るそれは、迢空の時代のものとは違う高度な猿芸である。迢空が、宿に呼んだ猿曳きの芸は、もっと素朴な鄙びたものであったろう。

 迢空はこの歌について「狐とおそらくどこにも似た処のない動物が、狐になって舞ふ処に、童話の世界が開けて見える」(自歌自註)と言った。同時に「信太妻の話」にふれていた「陰惨な声」が誘う感傷にも注目しておきたい。そこには差別された芸能民の心性が揺曳している。正月ののんびりとした光景にも陰影があることを忘れてはならないだろう。

今年一年よろしくお願いします。また月、水、金曜日を担当する前田康子さん、お手柔らかに。楽しんで書いていきます。