消火器の肩のあたりを拭きながらいつしかわれの肩と思いぬ

関谷啓子『硝子工房』1989

 

家に置いてある消火器だろうか。埃をぬぐおうとふいている消火器の肩のあたりがだんだんと自分の肩のように思えてきた。シンプルな歌だけれど、どこか寂しさがある。出番なく忘れられている消火器が自分のようでもあるし、そんな自分を自ら励ましてやっているようにも思える。「消火器の肩のあたり」という表現が寂しい肩のラインを思わせる。

 

日常や子供時代からさらりと世界観をひろげているような歌が関谷啓子にはたくさんある。

 

褐色の小瓶のなかの風邪ぐすり甘さに飢えて飲みし日のあり

曼珠沙華ポキポキ折りて帰り来ぬ姉と遊べば姉の言いなり

タンバリンばんばん鳴ってゆうがたの慌ただしさのくるはよろこび

 

一首目、子供のころ病院で目盛りのついた瓶にもらった水薬の味をすぐに思い出したが、市販の液体の風邪薬かもしれない。風邪でもないのに、甘いものを口にしたくなってのんでしまったのだろう。二首目、「姉の言いなり」に過ぎた遊びの時間の不満を、曼珠沙華をどんどん折ってやり過ごしている。「兄」より「姉」というのがいい。

三首目は勢いのある作品。夕方のせわしなさを音で表している。実際のお店の様子などにとってもいいが、次から次へと用事を片付けて生き生きと動いている感覚が喩えられているととった。

ポキポキやばんばんといったオノマトペの使い方も平凡な表現なのだが、却っていい。

 

旅行をしたり、特別なことがあった時間はつかまえやすいだろう。何でもない日常の時間は、あっという間に埋もれて過ぎていってしまう。何でもない時間のなかにいる素で孤独な自分を関谷のようにつかまえてみたい。