小高賢『長夜集』(2010年)
小高賢さんの第八歌集『長夜集』は、老いをうたう。老いの歌だらけとも言える。老いと言っても60代半ばだから、今の感覚では初老といったところだが、これほどに老いの意識に迫られるものなのか、と驚きを新たにしている。
小高さんが亡くなったのは2月11日早朝であった。都心の仕事場にひとり息絶えていた。小高さんは本名鷲尾賢也、優れた編集者でもあった。「講談社選集メチエ」を創刊したことで知られる。「講談社現代新書」の編集長を務めていた時期もあり、私などはこれらの書物に蒙を啓かれることたびたびであった。退職後も短歌のみならず、多数の著作があり、まさに現役のままの死と言える。
小高さんの急逝に驚き、手近にあったこの歌集をあらためて読み直し、すでにこの時期から死を意識していたのだと思った。
道草を食うたのしさも悔しさも忘れ後半生は早足
憎むこと少なくなりぬ壮年のあぶらのようなものの失せるや
衰えるものへの作法序章より教えてくれる講座はなきか
歯を抜いて何をうずめる身のうちに数ましてゆく人生の洞
食べるにも眠るにもいる体力は食べて眠れどあわれ戻らぬ
小高さんの歌は分かりやすい。歌われたとおりに心や身体の衰えを強く意識していた。「あとがき」には、「想像以上に、歳を重ねることはしんどいものだ」という言葉も記されている。この一首もそうした意識がみせる都会の夕景だろう。いたく重たく、うす暗く日は没してゆく。
とはいえ、時に見せる鋭いまなざしも見逃してはなるまい。
誕生日も没年もなし電柱のカラスは今朝もだみ声に鳴く
あきらかに憎悪に近き表情を身体に載せるひと多くなりぬ
夕やみの本所深川迎え火はほたるのごとし戸口戸口に
現役を退いていながら役職の順につづきぬ焼香の列
三首目の美しい光景、二、四首の鋭さ、小高の知性や抒情が明瞭だ。
小高は、最近の口語調の安易な自己肯定の歌への苦言を、ここのところ意識的に発していた。その姿勢を頼もしいものに感じていただけに、その死が残念でならない。
先日届いた「現代短歌」3月号に小高の作品が掲載されていた。「よきものの」の題のもと一連13首、その最後に次の一首があった。
不審死という最期あり引き出しを改めらるる焉りはかなし
なにかの暗示があったのだろうか。その死に方を思うとふしぎな一首である。