いつしらに庭の白梅咲きさかり夕かぎろひのなかに散りゆく

羽場喜彌『心象風景以後』(2013年)

春の夕暮れの光りのゆらぎのなかを、いつのまにか盛りをすぎた白梅の花が散っている。静かな歌だが、梅の盛りを知らなかったのは生活の忙しさゆえであろう。この歌の前に二月末に降った雪のなかに白梅が凛々しく咲いたと歌っているから、その後しばし仕事に忙殺されて庭の梅の木などに注意していなかったのだろう。ようやく仕事が一段落した落ち着きの中で盛りをすぎた白い梅の花が散っているのに気づいたのだ。

桜の花とちがって梅の散華は花が解体し、花びらも散らかって荒惨な感じを与えるところがある。ただ美しいだけではない。それが宴の後の寂しさをも感じさせる。

『心象風景以後』は、昨年5月に90歳で亡くなった羽場喜彌の遺歌集になる。「あとがき」は妻の名で書かれている。1996年に『心象風景』という第一歌集が出ているようだが私は未見。

奥付の略歴や作品によれば、医学・薬学の専門誌の出版社を経営していたようだ。一方歌歴は、「短歌草原」の柳原留治に師事、没後「心象」を創刊、以後亡くなるまで編集・発行人であった。

私はまったく存じ上げぬ歌人であったが、いただいたこの『心象風景以後』のいくつかの歌が印象に残った。この一首も印象に残った歌の一つだが、無駄のない措辞、調べに配慮した作品は会社経営をつづける日々のひとりの人間の心のうちを素直に表現している。

 

髪切りて口紅つけたる老妻の若やぎて見ゆ言(こと)には出さず

子をなさぬ妻にしあれば双乳のをとめさびつつ老いてゆくらし

晩酌の一合の酒を時かけて独り呑みつつ愉しまず居り

晩酌の二合の酒にのどつまらせ悪戦苦闘の夜の酒あはれ

 

こうした妻を愛おしむ歌や亡くなるまで飲み続けたと思われる酒の歌に心惹かれるものがある。歌集は七十代から九十歳に至る老年期の作品だが、仕事の歌もあって、充実した人生が感じられ、その充実は作歌が支えていたに違いない。

 

性愛のことなどふとも思ひたり晩夏光ゆらぐ道あゆみ来て

杖をつく人いくたりか道に会ふ我も杖つき歩めるひとり

 

老いてゆく自分を自然に受け止める強さが感じられる。