死の穢れなどといふものを落とすためわが身に人は塩の粒まく

今泉重子『龍在峠』(2007年)

 今泉重子(いまいずみ かさね)がこの世を去ってから、今年は18年になる。生きていれば45歳、きっと落ち着いた歌を作っていただろう。今泉は、若くして自裁した。半年前に結婚を決めていた男性の突然の死を追ってこの世を去った。

結婚するはずだった鈴木正博は、私のもっとも親しい友人でもある。岡野弘彦のもとで歌を作りはじめ、「人」短歌会に加わり、その終刊後は「白鳥」に拠った。同じ道筋を今泉も追ってきた。十歳若い今泉が短歌を作りはじめたのは、「人」解散後であったため「白鳥」に参加した。そこで鈴木を知り、やがて親しくなる。鈴木の死の一ヶ月後には披露宴が予定されていた。

家族も、またわれわれも注意はしていたつもりだった。短歌も、鈴木の死の月は欠詠したもののそれ以外は充実した歌が並んだ。とりわけ最後になった一連は、鈴木の死をたしかに受け留めていた。これで大丈夫だろう。彼の死を乗りこえた。私はそう理解した。直接に会った印象も明るいものだった。

だからその自裁を聞いて取り乱した。あの明るさは、すでに死を決意したものだったのだ。

私にはそれが分からなかった。

この歌は、その最後の一連「残夢」のうちの一首である。死の穢れなど彼女はまったく感じていなかった。死の側に彼女はいたのだ。葬儀・焼骨の穢れを清める塩、おそらく家族だろう作者のからだに塩を撒く。そこには他人事のようにこの世の行為をみている作者がいる。何度も言う、作者はもう死の側にいたのだった。

本来、鎮魂の短歌は、生き残ったものが生き延びるためのものだ。その短歌が、死を促したのだろうか。今でも思い返すたびに悔いのようなものが残る。その清らかな決意を美しいものと思うがゆえにこそなのだが。

遺歌集になった『龍在峠』には、今泉の発表された歌がすべて収められている。岡野のもとで鍛えられ、満を持したような「白鳥」への参加であったから、最初から端正な形を持っていた。大和を隅々まで歩いた裏打ちのある叙景の歌に感心したものであった。

 

山峡(やまかひ)にほそく続ける路をきて村ひとところ陽のあたる見ゆ

峠越えて南面の村の道白く乾ける日中あかるし

 

鈴木との恋の歌も、ほのぼのと愛らしい。この世に未練の一つもなかったのだろうか。今日がその自裁の日である。そして、生きていれば鈴木正博の39回目の誕生日でもあった。その日を選んで彼女はわれわれの前から去っていった。