病院のゆかに眠れずをりをりに覗く夫も眼あけゐし

佐藤志満『立秋』(1988)

 

佐藤志満は二十歳でアララギに入会し、二十五歳で三歳年上の佐藤佐太郎と結婚、二女をもうけた。この一首は晩年の佐太郎の入院に付き添っている場面であるが、連作からは佐太郎は意識なく流動食によって生かされている状態である。病室のベッドの横に寝ていても眠られず、夫の様子を見ると夫は眼を開けているのである。意識のない眼は夜のくらがりの中で何を見ようとしていたのだろうか。そして懸命の看護の甲斐もなく佐太郎は志満が病室にいない間に亡くなってしまう。

 

死顔にかわきて残る涙のあと拭きつつわれの涙とどまらず

いま暫し居よといふがに見つめゐき次の日行きてその命なし

窒息死は一分ほどの苦しみと謂へど孤独に死にたり夫は

 

病名は脳梗塞、直接の死因は肺炎であったという。哀しみがありながらもリアルにその様子が表現されている。一首目の涙の跡は病で言葉も話せなくなっていた佐太郎の、最後の表現であったかもしれない。

 

「怒るのは死ぬ迄直りません」と言ひし土屋てる子夫人の霊に額づく

いつ怒り何に怒るか知りがたくわが四十五年安き日のなし

一日だに怒らぬことのなかりしが五尺ばかり腸の長かりしとぞ

 

夫を詠んだ歌にはこういうのもある。佐太郎の作品からは想像できないが、家では頻繁に妻を怒っている所があったようだ。志満は第一歌集『草の上』の後記にもはっきりとそれを書いている。「実生活の面でも、気性が激しいといふのか怒り易いのが辛かった。貧乏に耐へて奮闘した時代もあったが、わたくしにはさういふ事よりも怒られるのが辛抱できないやうに思ふことがしばしばであつた。」という文章である。一首目の「土屋てる子」は土屋文明の妻で、折々に家庭内のことを相談していたのであろうか、文明も怒りやすい人だったのかもしれない。三首目では怒り易いのは腸が人より長いからという説にまでたどりつく。

佐太郎の歌からは見えない人間像が、妻である佐藤志満の歌から立ち上がってくる。私も夫婦で歌人をしていて歌のイメージと本人とは違うことがわかっているから、志満の気持ちも少しは理解できる気がする。