ま昼どき畳のうへにほうほうと猫の抜毛の白く飛びつつ

古泉千樫『青牛集』(1933年)

古泉千樫に高い評価を与え、そして親しく交際したのは釈迢空(折口信夫)であった。ともにアララギに所属し、そこから離脱、「日光」の創刊にかかわった。迢空は、千樫の歌の情調――抒情とのびやかな調べを思えばいいか、を愛してやまなかった。それだけに一時期の千樫の歌の「説明病(コトワリヤマヒ)」を指摘して、「描写」一辺倒で通そうとする姿勢から、「気分的・象徴的」方向へ伸びてゆくように苦言したりする。

 

鷺の群かずかぎりなき鷺のむれ騒然として寂しきものを  『屋上の土』

茱萸(ぐみ)の葉の白くひかれる渚みち牛ひとつゐて海に向き立つ

秋の空ふかみゆくらし瓶(かめ)にさす草稗(くさびえ)の穂のさびたる見れば  『青牛集』

 

このような歌がある。茂吉は、一首目の「騒然として」に注文を付ける。「理詰」だと言う。たしかにそうだろう。千樫には写生に徹底できないところがあった。それがアララギ離脱へとつながる根本要因だろうが、その清新な抒情は、二、三首目にも現れている。

岡野弘彦は、研究会の学生が短歌に興味を持ちはじめたとみると、古泉千樫や折口春洋の歌を読むことを勧めた。記憶して、真似るようなくらいに読みこんでみなさいと。一昨日取り上げた今泉重子などは、その指導に素直に従った一人だ。

岡野がそう指導したのは、迢空の影響がある。先に述べたように千樫の歌の価値を本当に理解していたのは迢空であった。

「日本の短歌は、本質に従うて伸びると、千樫の歌になる」(「古泉千樫集追ひ書き」)とまで、迢空は言っている。それだけに苦言も多くあった。しかし晩年の歌への評価は高い。

 

枯木みな芽ぐまむとする光かな柔らかにして息をすらしも   『青牛集』

えんがはにわが立ち見れば三月の光あかるく木木ぞうごける

麻布台とほき木立のあたりにはつばさ光りて鳶の翔(かけ)れる

 

最晩年の歌である。多くの言葉はいらない。じっくり味わってほしい。

今日、紹介したこの一首も、同じく最晩年、「病状春光録」の題のもとに「三月二十三日」の詞書があって、その二首のうちの歌だ。千樫が現実に亡くなるのは八月のことだから、死のおよそ五ヶ月前、なんともやさしい歌である。島木赤彦は、家の犬のゆくえを歌って亡くなったが、千樫は猫ということか。むだな言葉、余分な題材もない、このふしぎな安息の世界を味わってほしい。ちなみに小石川の伝通院にある千樫の墓の碑銘は、迢空の筆による。