石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも

志貴皇子『万葉集』巻8・1418(8世紀)

*石に「いは」、垂水に「たるみ」のルビ。

 

中学の国語の教科書にも採られ、よく知られた万葉歌だが、春というと一昨日紹介した茂吉の歌とともに思い浮かべる一首である。『万葉集』巻八「春の雑歌(ざふか)」の冒頭に、天智天皇の第7皇子である志貴皇子の作とされ、「懽(よろこ)びの御歌」の詞書が付く。

石の面をはげしく流れ落ちる滝のほとりにわらびが芽を出している。いよいよ春になったのだなあ、という感動、その喜びを歌っている。「垂水」は滝の意。という解釈をして、鑑賞している。情景を思い浮かべ、なるほど春の到来を「胸のあたりがうれしく」(茂吉)なるような感動で伝えてくれる。

その感動を受けとれば、それでいいのだが、この一首の読みは、実はまだはっきり決定しているわけではない。初句をどう読むか。「いはばしる」か「いはそそく」か。その二説が鬩ぎ合っている。どちらでもいいではないかと思うかもしれないが、どうしてそういう違いが生ずるのかについては知っておいていいだろう。自分はどちらを採るかは、歌を読み、また詠むうえで参考になるし、また実作者の立場で考えれば、よく似た語のどちらを採用するかは、常に問われている問題である。

『万葉集』の歌を、われわれは現在漢字ひらがな交りの形で読み下されたテキストを読んでいる。しかし本来は、いわゆる万葉仮名、つまり日本語はもともとは文字を持たなかった。そこで漢字の音訓を借りて表記していた。『万葉集』の歌はすべて漢字で表記されていたのだ。たとえば、この一首は、以下のように記されている。

 

石激垂水之上乃左和良妣乃毛要出春尓成来鴨

 

おそらくすでに奈良時代には、このような歌をどう読むか分からなくなっていたのだろう。長い年月をかけて私たちの祖先はそれを読み解いてきたのだ。その成果が、今私たちが簡単に目にするような読み方として提示されているのだ。『古事記』もそうだが、漢字のみで、しかも中国伝来の漢文とは違う、ただ漢字の音訓を借りた文章を読み解く難しさは、想像するだけでも困難を要しただろうことが思われる。先人たちのそうした努力を時に思い起こすことは、この国の文化や伝統を思うことにもつながるだろう。

さて、この歌の初句、原文では「石激」――「江戸時代までの諸本のほぼすべてに、ひらがなやかたかなで、『イハソソクタルミノウヘノサワラヒノモエイツルハルニナリニケルカモ』という訓が施されて」いたという。(岩波文庫版『万葉集一』大谷雅夫解説)

「いはばしる」と訓みだしたのは江戸時代半ばの国学者、賀茂真淵からである。とはいえ旧訓の「いはそそく」を採用する本も続いていた。さて、どちらなのか。岩波文庫、これは新日本古典文学大系『萬葉集』に基づく本文を採用して「いはそそく」になっている。詳しくは大谷雅夫の解説を読んでもらいたいのだが、これを読むと「いはそそく」と読むべきかとも思うが、今回は長く親しんで来た「いはばしる」に従っておく。ただ『万葉集』の歌には、まだ訓が決定していないものがあることは、知っておきたいところである。