春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ

前川佐美雄『大和』(1940年)

 

昭和十年代、『新風十人』(1940年)の中心歌人でもあった前川佐美雄の代表歌である。大和(奈良)葛城を故郷とする佐美雄は、くりかえし大和の風土をうたうが、その大胆さにおいて、この一首がもっともよく知られている。

大和の国、奈良は盆地であるから、そこに春の霞が滞留するとなにもが見えないような状態になることがある。のだろうか。想像上には在り得る光景ながら、ほんとうのところは分からない。とりわけ佐美雄ゆえに何とも言えないが、吉野の「花醍醐」――吉野山の桜がいっせいに花を舞い散らせる日がある、それを花醍醐と呼ぶという発言から考えれば、実景を想像してもいいだろう。そんな春の霞になにもかもが見えない。そんな日、そんな光景こそが、ほんとうの大和なのだ。

大和朝廷の都が点在した大和の歴史と風土、血なまぐさい数々の事件があったことを思えば、大和とは、この美しく朦朧靉靆とした春霞の内にこそある、と言われれば、それはそれで納得できる。

さらにこの一首、ヤマトタケルに取材した一連の歌だから、命絶えたタケルが白鳥に化し、故郷大和の上空を飛びながらの思郷と読んでもいいだろう。

いずれにしても大和の本質を言い当てた魅力的な歌である。私はこの歌を長く愛してきた。

ここまで書いてきて、私はこの歌の大和を俯瞰した視点でとらえていることに気づいた。どこでもいい、大和のどこかを歩いている視点で、春の霞に周囲がみえないという状態の方が自然ではないか。そう思う私がいる反面、俯瞰の視点は棄てがたく、実際は盆地周囲のやや高い位置からの視線と考えれば問題ないというところに落ち着いた。山の辺の道や西の葛城古道くらいの高さを思えば、ふさわしい。実際、この歌を刻んだ歌碑は、山の辺の道の檜原社に在ることを思えば、そうなのだろう。檜原社から西へ少し出た地点から見渡す大和盆地は、その風景そのままである。

小学校6年の夏、無理を言って父に奈良旅行をねだった。父は大阪への出張に合わせて、明日香村の民宿に二泊、その後大阪へという日程を組んでくれた。法隆寺の百済観音に茫然として、大和八木駅の高架ホームに耳成、畝傍、かすかに香久山を望見した喜びは、今も忘れていない。

その一日、民宿に自転車を借りた父と子は、山の辺の道を走った。三輪山を廻り、檜原社に到り小休憩、そこにこの一首を刻んだ歌碑を発見。佐美雄自筆、そのやわらかい筆致をそのまま石に掘った歌碑、はじめてこの歌を読んだ。そして記憶した。

その夜、同宿の女性に甘樫丘の夜景を見ておくいいと聞いて出掛けた。灯りのない山道を登った展望台からの眺望は、興味深いものだった。

展望台をそのまま歩いて行くと橿原市側の夜景が見えてくる。明日香村は法律の規制があって、大和造りの人家は乏しい灯りがぽつりぽつり。それが市との境界と思われるあたりを境に団地や店舗のネオンが明滅する。さらに視線を遠くやるとぼおっと明るい夜景が広がる。まだ昭和四十年代だから、いまとは比べ物にならないが、その明るさはきらきらしく感じられた。

ところが展望台の逆側に向かうと全く違った光景が広がる。それは驚くほどの暗さだ。ほとんど光がない。背後には多武峰から連なる山々、その黒い背景に包まれる明日香村はほとんど光がないのだ。とりわけ暗いところは古代の遺跡だ。古代の宮跡や寺院や神社である。まさに「暗き所を大和と思へ」という光景であった。今日覚えたばかりの佐美雄の歌が、こんなふうに私の幼い頭によみがえったのであった。その日から、この歌が私には忘れられない一首となった。父との旅の思い出としても。