くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の かげ うごかして かぜ わたる みゆ

会津八一『鹿鳴集』(1940年)

 

さらに奈良の仏像の歌を。

会津八一の歌は、ご覧のとおり表記に特色がある。ひらがな分かち書きとでも言えばいいか。全体がひらがなだけに、ゆっくり読むことになる。調べの上でも、また内容を把握するにも、時間をかけよと歌人が主張しているかのようである。

 

観音の白き額に瓔珞の影動かして風渡る見ゆ

 

漢字に変換してみれば、印象の違いが歴然とする。なんだか窮屈だ。会津八一は、それをきらったのだろう。

この一首、歌われた観音について一悶着ある。

『鹿鳴集』は、会津八一のこの時点での全歌集にあたる。つまりそれ以前の『南京新唱』と『南京余唱』を含んだ歌集である。この歌は、『南京新唱』(1924年)に既に収められていた。その際には、「法輪寺にて」と詞書が付いている。しかし『鹿鳴集』では、「奈良博物館にて」に変更されているのだ。どういうことだろうか。

1953年、八一は、『自註鹿鳴集』を世に出す。八一独自の「考証癖」が、自作にも働いたか。この歌には、詞書の「奈良博物館」と「やうらく」に註が付く。そして、次のようなことわりがつづく。

「されどこの歌は、法輪寺講堂の本尊十一面観音を詠みたるものなるに、歌集刊行の際、草稿の整理を誤りて、ここに出せるなり。それにつきて『渾斎随筆』に一文を草しおけり。」

 

たしかに『渾斎随筆』には「観音の瓔珞」という一文があり、その事情を語る。そこには、この歌が、1908年8月、八一が初めて奈良へ古美術行脚に出かけた折りにつくられたものであり、場所は富郷村の法輪寺であったと記憶するという。だから『南京新唱』には、「法輪寺にて」と詞書を付けた。

ところが、その後気になって調べると、「あの寺の講堂の本尊になつて居る、一丈あまりもある藤原時代の十一面観音は、顔はなるほど白いが、その上の瓔珞」がない。そこで「いくらかの無理さへも忍びながら断然『奈良博物館にて』という一群の中へ」組み入れたという。奈良博物館の大広間の正面「大ケイス」には、法輪寺の虚空蔵菩薩としているものを、美術史家の目からすれば観音像であるから、それを歌ったということにしたと述べる。

ところがである。八一は1940年10月、また法輪寺を訪れる。その時、住持があの歌は講堂の観音に違いないと断言する。しかし瓔珞がないではないか。八一がそう言うと、「まるで待つてでも居たやうに」、その瓔珞は今でこそ無くなっているが、寺でそれを不自然なものとして取り除いたのが1909年のことだと言った。八一が最初にこの寺を訪れた時には、瓔珞は付いていたのである。

この歌が、法輪寺の講堂の十一面観音を歌ったことが、これではっきりしたわけだが、「観音の瓔珞」はもう少しつづく。

説明が後になったが、瓔珞とは、ここでは「宝冠より垂下せる幾条かの紐形の装飾」である。八一は、その観音の額の上にかぶさる瓔珞の写真を見た。写真を見るかぎり、その瓔珞は、「なかなかたやすく、風やなどで揺れるやうなものでもなかつた」。

八一は言う。「私の心の中に、忽ち一陣の風を捲き起して、それを動かしたのかもしれぬ」と。虚実皮膜、「さうだとすれば、むしろこれにも驚かされる。」

八一の言葉である。

という顛末があるものの、この歌に、微風に揺れる瓔珞と白面の美女の姿をした観音像がひっそりとたたずむ光景を、私は想い見るのであった。