前田 康子


ブロッコリーの花を咲かせて生けている米寿の母のふしぎひろがる

上條節子『森喰うわたし』(2013)

 

食べずに何日か放っておいたブロッコリーかもしれない。ブロッコリーはアブラナ科だから菜の花に似た黄色い花が咲く。その花を花瓶か何かに活けている母。そんな老いた母を作者は咎めるでもなく遠くから不思議な感じで見ている。結句で活けられた花とともに、部屋全体に母の老いの寂しさが広がっているようだ。

 

つぎの世は雲になるよと母は見る体力ありそう入道雲は

しゃべりきって疲れたと母は電話切るわたしの耳はしろい皿の上

 

母の歌はこのようにも詠まれている。生まれ変わったら雲になると考えている母。はかなく流れ消えていくようなものを一瞬想像したが、下句で変わった。空高く迫り出している入道雲のことだった。「体力ありそう」という所が面白い。二首目は母と電話をしている場面だが、電話をしていて本当に疲れたのは作者の方かもしれない。下句はどういうことだろう。耳だけが疲れて皿の上に置かれているような不思議な場面を思い浮かべる。

 

また広島への原爆投下もこの歌集の重いテーマである。

 

青空は不吉な深さシャツを干す手をあげかけて叔母は灼かれた

逃げよ逃げて家族を起こし叫んでた義母のPTSDそののち無言

 

被爆二世として作者は広島を見つめ、身近な人々の体験や記憶を冷静に詠んでいる。一首目は本当に何でもないいつもの朝に、突然起こった原爆投下が見えて来るようで「あげかかけて」という動詞が哀しく、衝撃的である。また二首目は義母の心的傷後ストレス障害の様子である。時間が経ち外側に平和な暮らしが来ても、このように苦しんでいるひとがいることを今さらながら確認する。

この歌集は作者の第一歌集だが、歌が堂々としていて生きてきた時間の濃さを感じた。次のような歌にもはっとさせられた。

 

透明なペットボトルを満たしゆく一円玉は鈍器になれる