一ノ関 忠人


ゆく春や とおく〈百済〉をみにきしとたれかはかなきはがききている

下村光男『少年伝』(1976年)

 

『少年伝』よりもう一首を。

前川佐美雄の「なにも見えねば大和と思へ」の歌を紹介する文中に、小学校6年生の奈良旅行の記憶を書いた。法隆寺の百済観音に茫然とした、と。

古代への憧れは、いつから、またどうして私のものになったのか、正直よく分からない。気づいたら歴史への興味を深め、とりわけ古代に何かを感じていたらしい。下敷きは、父に連れられて参加した史跡巡りの会への参加であったろう。月に一度、関東各地の中世遺蹟をめぐる散策に連れて行かれた。その会は、本格的なもので、何人かの歴史研究者が指導していたから、板碑の発掘や整理、拓本を取ることなども含む、本格的なものだった。子どもの私に何が分かったわけではないが、その空気感が、しばらくオレは歴史学者になると言わせたほどだ。

そうして募らせた歴史への興味、古代への憧れが、大和への旅につながる。飛鳥や山の辺の道に加えて、法隆寺は憧憬の一つであった。暗い堂宇、ガラスケースもなにもない、宝物館の陳列台の上にむきだしのまま、見上げるほどの高さに百済観音像はすっくと立っていた。これが、あの百済観音――あとはあまり覚えていない。父に言わせると30分ほど、ただ茫然と見上げていたらしい。声を掛けても微動だに反応もなく。

すらりと反った長身の美女、しなやかな腕、彩色が剥落して表情もはっきりしないが、何かに圧倒された。ただただ感動したのだ。その美しさは、エキゾチックなものであった。「百済」の語が、その印象を強いものにしたのだろうが、朝鮮系の美女は、しばしわがアイドルであった。後に女子バレーの韓国チームに百済観音によく似た姿の美女を見いだすが、エロスの感情も含めた百済観音愛が私にはある。

この下村光男の一首は、「とおく<百済>をみにきし」とあって、百済が何を指しているのか分からない。実際に百済の故地に来ているとも考えられるし、「みにきし」(見に来し)だから、やはり百済観音とも取れる。あるいは台風の到来で予定の釜山へ渡ることが出来ず、対馬から遠く百済を望んだ私のような行動も有り得る。いずれにしてもロマンチシズムとエキゾチシズムとエロチシズムとセンチメンタリズムを刺戟する一首であることは間違いない。私は、このはかなげな歌の虜になってしまった。

今でも、この歌を口ずさむとふしぎな気持ちになる。青春期の淡い感傷が胸に疼くような気持になる。

初句「ゆく春や」も、芭蕉の「行く春を近江の人と惜しみけり」を想起させて、さらに「百済」を歌枕のごとく、詩想を広げる。過去への時間、百済への空間のひろがり、この一首、一篇の詩にほかならない。