み吉野の 象山の際の木末には、ここだもさわく 鳥の声かも

山部赤人『万葉集』巻6・924(8世紀)

*象山に「きさやま」、際に「ま」、木末に「こぬれ」のルビ。

 

『万葉集』から、つづけて深沈たる味わいの歌を。

本来ならば、次の一首と共に鑑賞してほしい。

 

ぬばたまの夜のふけゆけば、久木(ひさぎ)生(お)ふる清き川原に 千鳥しば鳴く 925

 

725(神亀2)年聖武天皇の吉野行幸の際の長歌(923番歌)の反歌として、この2首がセットになっている。吉野への行幸は、天武天皇以来しばしば行われ、柿本人麻呂の長歌(巻1・38番歌)が、力強い、言葉の力を感じさせてくれる。長歌に触れる余裕がここにはないが、38番の人麻呂歌と923番の山部赤人(やまべのあかひと)の歌と、ぜひ声に出して読み比べてほしい。赤人の長歌も、決して悪いものではないが、人麻呂の長歌を読むと、やはり言葉の力の違いを感じさせられる。吉野へ逼塞していた天武が、ひそかに脱出、壬申の乱によって政権を奪う、その記念すべき吉野への行幸、まだ記憶が生々しく残っていた時代ゆえか言葉に強さがある。赤人の長歌は、それから一世代後の作である。おのづから力の入り具合が違って、どこか類型的に見えてしまう。

しかし、この反歌は違う。人麻呂の長歌にセットされた反歌は、次のような歌である。

 

山川も寄りてつかふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも  39

 

荘厳ではあるが古風な印象は否めない。赤人の二首の反歌の緻密な表現がもたらす深沈とした思いには及ばない。

吉野川の傍らにある象山の山のま、つまり山の空に接しているところの梢を見上げると、そこにはひどくたくさん集まって、鳴いている鳥の声、それが聞こえる。

ぬばたまは、黒いものの枕詞。ここでは夜――その夜がだんだん更けて来ると、昼間に見ておいたあのきささげの木のたくさん生えている、そして、景色のさっぱりとしていたあの川原に、今この深夜に、千鳥がしきりに鳴いている。

2首をそれぞれ訳してみた。いずれも「瞑想的」な印象を与える。これも旅の心の動揺を鎮める働きを持った歌である。昼間見た光景をつぶさに思い出し、鳥の声を聴く。聴覚から自然の核心に迫る、この二首の夜の鎮魂のしらべは、短歌の一つの極致であると思う。