風になびく富士のけぶりの空に消えてゆくへも知らぬわが思ひかな

西行『新古今和歌集』巻17雑歌1615(1205年)

 

詞書に「東(あづま)の方へ修行し侍りけるに、富士の山をよめる」とある。1186(文治2)年、奥州平泉の藤原秀衡に東大寺大仏再興のための沙金寄進を請う目的の旅での作とされる。西行69歳。次の絶唱も、この旅の折のものだと考えられている。

 

年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山 『新古今』巻10羇旅歌987

 

年老いて、その命のかけがえのなさを実感する緊張感が、この富士山を歌った一首にも共通している。この旅では、途中立ち寄った鎌倉の鶴岡八幡宮の社頭で源氏の統領である源頼朝に兵法を語ったと言われる。

その後、1189(文治5)年秋、比叡山無動寺に慈円を訪れる。そこで「この二三年の程によみたり、これぞ我が第一の自歎歌と申しし事を思ふなるべし」と西行が語ったことが慈円の『拾玉集』に記されている。「我が第一の自歎歌」は、自ら代表作であると自讃したということだ。

風に吹かれ、なびきゆく富士の噴煙が、空に流れて消えてゆく。その行方も分からない煙のように、これからどうなるか行き着き先の分からぬ私の思いである。といった内容の一首だ。当時富士山が噴煙をあげていたことがわかる。

最近、富士山の火山活動がはじまっているという説がある。江戸時代の噴火以来ながく休火山として鎮まっているが、また活動をはじめる日があるのだろうか。富士山は、活きた火山であることにも起因して、古来信仰の山であった。コノハナサクヤヒメを祀り神秘の山として、その秀麗な姿は、日本を代表する山と遇されてきた。富士を詠んだ詩歌も数知れない。この西行の歌のように、見事な歌もあるのだが、これが歌うに難しいことは、歌おうとしてみれば理解できるだろう。

 

不尽(ふじ)の山れいろうとしてひさかたの天の一方におはしけるかも 北原白秋『雲母集』

白雲は南へなびき不二がねのいただきに白く雪降りにけり  齋藤茂吉『白桃』

赤々と富士火を上げよ日光の冷えゆく秋の沈黙(しじま)のそらに  若山牧水『海の声』

金泥の西方の空にうかみいで黒富士は肩焼けつつ立てり  上田三四二『湧井』

 

近現代に歌われた富士である。久保田淳『富士山の文学』(角川ソフィア文庫)に見出した歌である。今日は山梨側からの富士山山開きの日であるという。