川そこの光消えたれ河郎は水こもり草に眼をひらくらし

芥川龍之介『芥川龍之介全集8』(ちくま文庫)

 

芥川龍之介といえば、河童である。自画像のような筆墨の河童像がよく知られている。そして、自殺する年に発表された短編『河童』――迷いこんだアナザーワールドは、ある精神病院の患者、第23号の語りという設定になっているが、そこには河童社会に借りた芥川自身の問題があふれだしているかのようだ。

出産、遺伝、家族制度、恋愛、検閲、失業、政党、ジャーナリズム、新聞、戦争、芸術、法律、自殺、宗教、死後……吉田精一の解説(新潮文庫『河童・或阿呆の一生』)には、「彼自身にとって、もっとも痛切な問題のみを大写しにしている」と指摘する。

あらためてこの小説を読んで、以前のような面白さを感じないことに驚いた。何かイヤなものを感じるのだ。それは一種の皮肉のようなものだろう。吉田精一(この人の名前も最近聞かない)の解説に、多くの批評の中で芥川が唯一「僕を動かし」たという吉田泰司の評が引用されている。

 

「自分はこの奇狂な主材の座を通して流れている作者のいぶされた人間的昴奮を随所に感じた。それは雑沓の中の孤独の感傷であり、不思議な仮面を冠った憂鬱の訴えである。」「至るところに精巧な機知と冷たい狂想がある。」それが、「一種異様な皮肉の情熱を醸し出している。賢明な諷刺の座に何か悲哀につながる憂噴がある。」

 

このような指摘である。芥川が自殺に到る、彼をとりまく社会との軋轢が、こうした「悲哀につながる憂噴」を生んだのだろう。この皮肉が、読者にイヤな感じを与え、自身に「デグウ(嫌悪)」を感じさせたのだ。死に値するほどの。

死に至る悩みに河童は救いにならなかったということか。ただ短歌にうたわれた河童は、小説とは違い、どこか哀切である。

 

橋の上ゆ胡瓜なぐれば水ひびきすなはち見ゆる禿のあたま

赤らひく肌もふれつゝ河郎のいもせはいまだ眠りてをらむ

人間の女を恋ひしかばこの川の河郎の子は殺されにけり

水そこの小夜ふけぬらし河郎のあたまの皿に月さし来たる

岩根まき命終りし河郎のかなしき瞳を見るにたへめや

 

一首目は、「戯れに河郎の図を作りて」と詞書にある。二首目以降は同じ一連であり、掲出の歌は、「水そこ」の前に位置する。人間の女に懸想した河童が殺された。その物語中の河童を歌っているのが、この歌なのだろう。水中に死にゆく河童の姿であろう。1920(大正9)年頃の作だという。親しい友人宛の手紙にしたためられた発表を予想したものではないが、何か物語を構想していたのだろうか。小説の種子のようにも思えるストーリー性がある。そして大川(隅田川)の河童伝承は、芥川龍之介には幼少からの身近なものであった。