処女らに何護らすとわが教ふ手榴弾に火をつけ爆ぜしむる術

香川進『香川進研究Ⅰ』(2014年)

*手榴弾に「たま」のルビ。

 

短歌結社「地中海」が創刊60周年を記念して『香川進研究Ⅰ』を刊行、創刊者である香川進(1910~1998年)の検証をはじめた。香川については、「花もてる夏樹の上をああ『時』がじいんじいんと過ぎてゆくなり」(『氷原』)の他はほとんど知らない私のような者には得難い論集である。

わが師である岡野弘彦は、折口信夫亡き後「地中海」に所属していた時期がある。後に「人」短歌会に結集する主要メンバーも「地中海」に所属していた。私の小中学校時代のことだから、「人」前史時代、つまり「地中海」は伯父御のような存在だろう。それだけに興味深く読み、いろいろなことを教えられる。

今回読んでいて特におどろいたのが、香川進と竹槍事件とのかかわりについてであった。他の多くの論と同じように田土成彦氏が書いている(「竹槍事件と香川進」)。

ことの発端は、1944(昭和19)年2月23日の毎日新聞の記事である。「勝利か滅亡か戦局は茲(ここ)まで来た」という見出しのもとに戦況の窮状を解説、続けて「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」との主張を展開。海軍航空力の増強を望む海軍当局には歓迎されたが、それが東條英機の逆鱗にふれた。

陸相と参謀総長を兼務した東條首相は、国務と統帥を一手に更なる戦争遂行を企て、「本土決戦」、「一億玉砕」を唱え始めていた。竹槍では間に合わぬ、海洋航空機こそが必要だとアピールした毎日新聞は、掲載紙の発禁と編集責任者の処分を命じられる。東條の怒りは激しく、毎日新聞の廃刊を命じたとも云う。毎日側は、責任者は処分したが記事を書いた記者には、逆に編集長賞を与え、海軍側も評価した。

記事を書いたのは、新名丈夫(しんみょう たけお)という1906年生れ、当時39歳の記者であった。新名は、大正年間に徴兵検査を受けていたが弱視のために兵役免除になっていた。その新名が召集された。懲罰召集であった。

新名が、黒潮会(海軍記者クラブ)の主任記者であったこともあり、海軍が「大正の老兵をたった一人取るとはどういうわけか」と陸軍に抗議。当時、大正時代に徴兵検査を受けた者の召集は、まだ誰一人いなかったそうだ。

しかし、陸軍側は、大正時代に検査を受けた者から250名を丸亀連隊(第11師団歩兵第12連隊)に召集、辻褄を合せた。

今の私どもから見れば、そんな悪辣な処置が首相の命令によってなされたということが信じられないのだが、そういう時代であったということか。新名は、戦争に反対を唱えたわけではない。さらに辻褄合わせに召集された30代後半の男性たちは、明らかに一家の支えであったはずだ。この理不尽……

新名は、郷里高松に行き、二等兵として丸亀の重機関砲中隊に入営、中央からは硫黄島へ転属させるように指令が届いていたともいうが、支那事変(日中戦争)の時に善通寺師団の従軍記者であった経歴、そして海軍の庇護もあり、連隊内で特別待遇を受け3カ月で召集解除になった。

その際、連隊将校から近く再召集の命が下ることが予想されるから、内地にいないほうがよいとアドバイスを受ける。実際、陸軍は再召集をはかったが、その前に海軍が報道班員としてフィリピンに送り、新名は再召集を免れる。辻褄合わせに召集された老兵は、硫黄島に送られ全員が玉砕、戦死したという。

少し長くなったが、これが竹槍事件の顛末である。田土のエッセイ、およびウィキペディアなどのネット情報を参照してあらましを組み立ててみた。誤りがあれば指摘していただきたい。

この事件に香川進がかかわっている。新名が召集された丸亀連隊の本部報道部に香川進中尉はいた。アドバイスをした連隊将校が、香川であったという。年譜には、「善通寺部隊では本土決戦遊撃戦闘隊の作戦主任」とある。

そして、この事件にかかわる歌として3首を『氷原』からあげて、若干の事情を香川自身が記していることを田土がエッセイに紹介している。

 

をとめらに何守らすとわが教ふ弾(だん)に点火し爆ぜしめるすべ

子がために求めし赤き風車老いたる兵の見呆けてゐるも

還りゆく兵が竝びて銭貰ふこの雰囲気に新しきところあり

 

最初の歌が、今日の一首の原作である。『氷原』に発表された形では、ご覧のように、少女たちに教えたのが手榴弾に点火する方法であったことが明確になっている。『体験的昭和短歌史』において香川は次のように述べる。

 

「わたしは新名たちに(略)非戦闘員の訓練に廻らせた。(略)一個の手榴弾をとり巻いての一同爆死の訓練である。」

 

この歌の事情が分かるだろう。本土決戦になって追い詰められたら自らの手で手榴弾を爆発させて自決する。その方法を新名たちがうら若き汚れない少女に教える。新名は、「この隊務は楽でよいけれど、もう良心が堪えられんと言った」という。

二、三首目も新名についての歌であるようだ。子どものために風車を買い求め帰郷する新名が歌われた。香川は、「若いわたしも東條の中央に対しては臆病であったように、今にして回想される」と言いながらも「当時のわたしは今よりも、少しは大胆なものを持っていたように思われる」、「新名二等兵は、おそらく死を意味する戦地に派遣されることはなく、入隊三ヶ月にして帰郷した。」

竹槍事件において香川進は大きな役割を果たしている。東條や陸軍上層部の意図には、明らかに反した処置である。「少しは大胆」どころではない。香川がこの処置にどれほどのかかわりを持ったのかが明瞭ではないが、暴露されれば責任を取らねばならぬような地位にあったもののように思える。この処置を難ずる人は、東條や陸軍上層部を除いて、当時も今もあるまい。香川進とは、こういう人だったのだ。