両の手を垂れて液体のごとき吾か夜半に明るき小園にをり

秋葉四郎『街樹』(1975)

 

作者は疲れているのだろうか。全身のどこにも力が入らず液体のようにだらろと手を垂れて夜の園にいる。「吾か」と自分を突き放し外側から見ているような表現である。夜、照らし出されている庭は昼間みるのとは違う特別な景色だっただろう。しかし作者はどこか無表情のように感じる。

 

午過ぎの雨に砂かたくなりし浜(なぎさ)に人は単純に立つ

冬浜の砂にいで来し人々の太く立ちをり夕光のなか

 

一首目の歌も作者が立っているような歌だが、この二首も立つ人を詠んでいる。一首目は「単純に立つ」という結句が印象深い。何も考えずに海の方へ視線を投げて立っているということなのか。あるいは砂が硬くなったことが単純さを連れてきたのか。いろいろな方向へ広がる。また二首目では「太く立ちをり」とある。これは冬の夕暮れの浜の様子である。少し風の少ない冬の日、その光にあたたまるようにどっしりと立っている人が影絵のように見えて来る。どちらの歌も「立つ」にかかる形容詞の使い方が独特である。長い時間観察して生まれ出た表現のように思える。

 

この歌集は第一歌集で作者の30代の歌が収められているが、妻と幼い子供たちとの家庭を築きながら、仕事に追われ、また師である佐藤佐太郎に従い海外へ旅をする歌などもある。

 

あわただしく働く朝の妻の声まつはる幼のこゑも移動す

預けつつ育て二歳になりし子が朝はみづから衣服をまとふ

病む妻にもの言ふ幼の声聞こゆ光ともなふやうな優しさ

みづからの衣服ととのへひとり寝るこの幼子の賢ささみし

 

妻と子はこのように詠まれている。一首目、妻も勤めに出るために慌しい朝、まだ幼い子は母のあとを追って何か言ったり泣いたりしているのだろう。作者もまた用意をしながら耳でその移動を感じている。二首目、四首目は早くから保育園に預けられ自分の身の回りのことをする幼子に驚くとともに、少し寂しさも感じている。たくましさを感じつつも、もう少し甘えさせてやりたい親心もあるのだろう。三首目はほっとする一首である。病気のお母さんに子供なりに一生懸命声をかけているのだ。そのひたむきな心を「光ともなふやうな優しさ」と詠んでいる。

直接、子育てをしたり子供に触れるような歌は少ないが、幼子の育って行く様子、大切な存在であることがこれらの歌にあふれていて、読んでいてこちらも優しい気持ちになってくる。

 

わが子ゆゑいづれ見守るのみながら売れざるシナリオライターもよし

わが(むすめ)まで流行の臍を出す装ひすればあはれとまどふ

 

第六歌集『新光』ではこのような歌もあり、成長した子をまぶしく見ている。一首目では大きく見守る気持ち、二首目には正直な父親の気持ちがよく出ている。