子の夢に見られゐるわれ夕闇に螢ぶくろを提げてあゆめば

小林幸子『枇杷のひかり』(1993)

 

不思議な歌である。会いたい人が夢に出て来るということはよくある。これは子が見ている夢のなかに自分が出て、子に見られているという歌なのだ。この「子」は作者が幼くして亡くした我が子である。夕闇のなか螢ぶくろを摘んで歩いてる作者。花の名前に螢という言葉が入っているのにも儚さがあり、俯いてふっくらとした花には女性性が感じられる。白いものだと夕闇に浮かび上がるように見えるかもしれない。直感的にいま、亡き子が夢に私を見ていると作者は感じたに違いない。亡き子は遠い星のような存在ではなく、作者のそばにいて常に作者を包み込むような大きな存在のように思える。

 

すつぽりとほほづきの芯抜けしとき目より耳より闇流れこむ

ほほづきの朱實あふるる鉢さげて振り向きしときふりむかれゐる

 

ほおずきの歌を二首。一首目は読んでいるうちに世界の内側と外側が入れ替わっている感覚に襲われる。ほおずき遊びをしている場面であろうか。芯がふっと抜けたとき、気持ちもすっきりとして周りにあった闇が自分のなかへ流れ込んでくる。まるで作者自身もほおずきになって抜けたところから闇が流れ込んできたように見えて来る。

二首目、結句の「ふりむかれゐる」は誰だろう。日常の人混みの中での場面ともとれるし、何気なく振り向いたときに見えた亡き人の顔ともとれる。ほおずきの実はどこか寂しい。それでも毎年なつかしく手に取ってしまう。(ほおずきは「ほほづき」と書く方が断然いい。)

 

わがいのち()くにあらねど朝あさの秋の加速のうつくしきかな

 

今日、近くの川を見に行ったら水の色や光が何となく秋を思わせた。野原にも秋の草がはえてきて、風が吹くとまとまりがなく寂しい景色だ。暑く止まったような時間を繰り返す夏にくらべて、秋という季節は時間が経つのが目に見える。その季節の様子に自分自身も急きたてられるような不安な気持ちになる時がある。この歌を読むとそんな秋がとてもなつかしく恋しくなってくる。

 

 

編集部より:小林幸子歌集『枇杷のひかり』が全篇収録されている『小林幸子歌集』はこちら↓

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