安藤正「國學院大學内立て看板」(1981年)
この歌にはドラマがある。
1981(昭和56)年7月半ば東京渋谷の國學院大學西門から入った左手に畳二畳ほどのタテカンが立った。当時、すでに新左翼運動の終末期、学生運動も都内のほとんどの大学から消えて行った。それでも独特の文字・レイアウトのタテカンは常に数枚、権力への抵抗を表明していた。そして革マル派と中核派の内ゲバはなんとも無惨なかたちの謀殺を繰り返していた。一人でいるところを金属パイプで武装した集団が襲うという酸鼻きわまりない虐殺が幾度かあった。国学院の自治会は革マル派の最後の拠点でもあり、それまでにも数人の犠牲者が出ていた。その事件の詳しい内容は知らないが、7月11日未明自治会メンバーの一人がアパートの自室で殺害された。
このタテカンに記されたこの一首は、その自治会メンバーへの挽歌である。鮮烈な印象を残す挽歌である。七月の夏の太陽の光のなかに一人の青年のいのちが断たれた。まさに軍靴に踏みつぶされる中のスニーカーの白。それは組織的暴力の無謀への告発でもあっただろう。
当時私は國學院大學折口博士記念古代研究所の電話番をしていた。岡野弘彦の研究室である。たしか先生が昼食(大講堂の裏に立食いソバが出店していた)に出て戻ってきたときだったと記憶するのだが、正確な記憶ではない。先生はたしかに興奮を隠さなかった、というか、君たちはあの立て看板の歌を読んでいないのか、読んでいてあの歌に反応できないのかと叱られるような感じであった。私も、たしかにその看板は見ていたはずだが、短歌だという意識をもっていなかった。一つは、当時の内ゲバや政治運動に全くシンパシーが持てなかったことにある。政治の時代の去った後の学生であったから、反応が鈍かったのだろう。
先生の指摘にあらためてこの歌を読み直し、やはり鮮烈なイメージのかがやきと事件の痛ましさに悲痛な感動を持った。
タテカンには作者名がなかった。まさに詠み人しらず、無名者の一首である。先生は作者を探そうとした。当時の大学の短歌研究会の中心メンバーであった鈴木英子ではないかという声が聞こえたが、違っていた。その後先生はこの歌を折に触れて紹介につとめた。それだけこの歌の持つ力を認めていた。
この歌の作者が明らかになったのは、事件から20年以上が過ぎてからだ。やはり鈴木英子によってだった。「二十三年目の詠み人しらず」に鈴木はこの歌の作者を明らかにした。そして作者が、この歌を賞讃しつづけた岡野弘彦と直接に会うのはそれから10年ばかりの年月を経てからのことであった。
「東京新聞(TOKYO Web)」2013年2月6日「『詠み人知らず』30年の真相」の取材による記事には、まず鈴木英子の当時の記憶についての発言がある。
事件当時、鈴木は国学院大学2年で短歌研究会に所属していた。殺害された青年は自治会の文化団体の担当者だったので、部室にも出入りしていた。ただ、仲が良かった分、歌は作れなかった。
「あの朝、鈴木が目にしたのはこんな光景だった。部室がある旧若木会館二階に上がろうとすると、内階段の踊り場で先輩が刷毛を手に立て看板を書いていた。/『青年死して』の歌だった。立て看板を書くのは鈴木の役目だ。「なのに何で?」と思って尋ねると、その先輩が言った。『短研の担当』が殺されたんだ」。
「短研」は短歌研究会の略称。その先輩が、つまりこの歌の作者であった。文学部4年の安藤正。安藤は「東京・中野の自宅で事件の連絡を受け、学校に駆けつけた。『内ゲバで寝込みを襲われた』とだけ聞いた。」
鈴木とは違い、その青年と親しかったわけではない。「だがなぜか心を駆り立てられ、追悼の歌を作っていた。『あなたの死は輝きを持っていたという鎮魂の思い』を込めた。」
その後、安藤は沈黙を続けていたから、青春の痛ましさを伝える現代の詠み人知らずの挽歌として受け取られてきたのであった。この歌を読むと、あの国学院大学の中庭の光景が浮かんでくる。もうすでにその面影すらなくなってしまった現在の大学だが、私はこの光景を忘れることができない。
是非この歌は紹介しておきたいと思いながら、時を逸して今日になった。まさに季節外れながらこの詠み人知らずの物語とともに一首を記憶に止めて置いてほしい。