さいかち 真


不二ケ嶺はいただき白く積む雪の雪煙たてり真澄む後空 

北原白秋『海阪』

*不二に「ふじ」、嶺に「ね」、雪煙に「せつえん」、後空に「あとぞら」のルビ

 

箱根駅伝のたすきをつなぐ若者の姿は、新年の使者そのもののように私には思われる。レースの行われる旧東海道、国道1号線沿いに住む人の話によると、駅伝のある日は、家の中にすわっていられない。でも、寒い中を長いこと待っていても走者が走り過ぎるのはあっという間のことなので、いつも何だか物足りないような気がして、来年は外に出て待つのはやめにしようと思ったりするのだが、やっぱり次の年もレースが始まると外に飛び出して応援することになるのだということだった。走者の横を伴走する車に審判として乗ったことがある人の話も聞いた。うらやましそうな口ぶりに対しては、長時間トイレに行かれないので水も飲めないし、それはそれで大変なのだ、ということであった。私の母は二宮の人だったので、子供の頃沿道に出て応援した思い出があった。そのためお正月は往路と復路の二日間、必ずテレビをつけて駅伝の中継放送番組を見るならわしになっていた。駅伝があるので、できたら年賀の挨拶は別の日にしてくれと言われたこともある。

この駅伝競走の始まりが、「東京奠都五十年奉祝博覧会」の協賛事業として当時の読売新聞社社会部によって発案されたもので、大正六年第一回の駅伝は、京都の三条大橋から出発して博覧会場の上野の不忍池に至るというものだったということを、私は歌人の土岐善麿の卒寿の著書『駅伝五十三次』(昭和五十年蝸牛社刊)によって知った。土岐善麿は、当時三十二歳で読売新聞社社会部長だったが、この企画の終了後、かかりすぎた費用の責任を問われて社を出ることになり、そののち朝日新聞社に移籍して記者生活を全うしたのだという。

私は神奈川県の高校で国語の教員をやってきたから、これまでに何人か駅伝に出るために大学に行きたいと言う陸上部の生徒と会ったことがある。これはマラソンの記録を伸ばしたいとか、競技選手として成長したいといった願望よりも、もっと深いところから情熱を湧き立たせる性質のものであるようだった。どこの地方でも、年に一度の祭のために打ち込む若者の姿は美しい。そのような晴れ晴れしさを感じさせる行事なのである。往路は富士山に向かって走り、復路は富士を背負って厳寒のなかを古代の行者のように走るわけである。掲出した白秋の歌は、反対側から観望してうたったもの。