黒豆を浸けたる水がむらさきになりゆく時間を一挙に零す

                     花山多佳子『胡瓜草』(2011年)

厨歌には独特の滋味がある。その理由の一つは、「時間」が詠み込まれていることではないだろうか。

黒豆に限らず、煮豆は手間と時間のかかるものである。レンズ豆などの例外はあるが、たいていは調理に取りかかる前に、ひと晩くらい水に浸けておかねばならない。たっぷりと吸水した黒豆からは、「むらさき」の成分が少し溶け出している。その色が「時間」の蓄積を思わせる。

「一挙に零す」の勢いが気持ちよい。プロの調理人でなくとも、料理の現場には常に手順のよさやスピードが必要とされる。煮豆はいつ作ってもよいものだが、この歌の収められた歌集を読むと、前後の歌に「歳晩」「冬の陽」といった言葉が含まれているので、「黒豆」はやはり正月のための一品であろう。「さあ、いろいろ忙しくなるから、まずは黒豆を煮ておかなくては」という少し勇んだ気分が、「一挙に零す」に表れている。

それにしても、炊事というものはあっけない。どんなに時間をかけて作った料理も、あっという間に自分や家族の胃の腑へ詰め込まれて終わりになる。食器や鍋類も、使って洗い、また使う、という繰り返しだ。時間を「零す」ことの連続――それが炊事であり、人の営みなのである。

そのことを虚しいと思わず、それこそが人生なのだ、という達観がこの作者にはあるのではないか。「一挙に」の思いきりのよさが、そう感じさせる。人生のさまざまな場面において、時間は「零れる」のではない、自分が決断して「零す」のだ。

 

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