ジェンダー講座の学生いわく「平等と幸福は必ずしも両立しない」

大田美和『葡萄の香り、噴水の匂い』(2010年)

 読んで思わず笑ってしまった。「一九八六年、男女雇用機会均等法施行。一九九九年、男女共同参画社会基本法施行。」と歌集冒頭の一連の詞書がある。掲出歌は、授業で男女雇用機会均等法を話題にして、さまざまな事例を説明したのち学生に意見をもとめたのだろう。そうしたら学生の言うには、「平等と幸福は必ずしも両立しない」。たぶん作者は、こういう意見に賛成ではないだろう。しかし、当事者の学生がこんなことを言うような現実が日本にはあるわけで、発言はそういう現実を根拠にしている。でもこうした意見は、つまるところ現状肯定の無気力な姿勢を容認するところに行きつくわけで、作者としてはこれを変えるためには、また新たな仕掛けを考えて相手を揺さぶっていくしかないわけである。

作者は大学の先生で、最近『ジョージ・エリオット全集』の詩集の巻を共訳で出した。また短歌以外の散文も含めたこれまでの仕事を一冊にまとめて『大田美和の本』を出している。これは物書きとしての人生の中間総括というところだろうか。

 

美和というハンコを捺して江田と書き大田と書きて十一年過ぐ

食べさせて洗って拭いて寝かしつけ私の帰りを待っているひと

 

一首目は、夫婦別姓で生活していると、書類や手紙の名前の表記を使いわけないといけない時があるのだろう。二首目は、夫が主婦の役割をしているという歌で、育児休暇を世の男性が普通にとるようになれば、別にめずらしいことでもなくなるわけだが、「食べさせて洗って拭いて寝かしつけ」というのは河野裕子の有名な歌を連想させ、それが役割として引っくり返っているところが、今読んでみてもおもしろい。

 

生理だろと気遣ったのに嫌われたどうすりゃいいと男子学生

『百万回生きたねこ』もってくる若い弟子は思いやりがあるのやらないのやら

 

こういうくだけた歌も随所にみえる。二首ともデリカシーの問題。この二首を見せて何を言うかで、自分の彼氏(彼女)がどんな人か、だいたいわかるかもしれない。いや、短歌をそんな使い方をしてはいけないか。