酒井和代 『もの言わぬ麦』(2013年)
犬の気持ちと飼い主の気持ちは、いつも合っているわけではない。犬の気がすむまで待たされることもある。飼い犬なら我慢できるのに、どうして人間だとがまんできないのか。なまじ言葉が通じると思うからかもしれない。ぼんやりしていると、犬がさっさと紐を引っ張ることがある。不意に動いたために、枯れ草に履物が引っかかって乾いた音を立てた。
出口など探してはならぬサーカスの白犬やがて寂しからんよ
というような歌もある。犬の歌ばかり引いてしまったが、地味な歌も、もの申す歌もなかなか見所がある変化をみせる作者だ。
この歌と直接関係はないのだが、こんな詩をみつけて、いまの時期に読んだらいいのかもしれないと思った。
海を歩く母さま 金子みすゞ
母さま、いやよ、
そこ、海なのよ。
ほら、ここ、港、
この椅子、お舟、
これから出るの。
お舟に乗つてよ。
あら、あら、だァめ、
海んなか歩いちや、
あつぷあつぷしてよ。
母さま、ほんと、
笑つてないで、
はよ、はよ、乗つてよ。
とうとう行つちやつた。
でも、でも、いいの、
うちの母さま、えらいの、
海、あるけるの。
えェらいな、
えェらいな。
書き写しているうちに涙が出てきて、とまらなくなった。私事になるが、あの震災以降私は何ひとつ人助けらしいことをしてこなかった。被災地にも行っていない。この詩を一人で朗読して、三年前に病没した私の母も含む亡き人々すべての冥福をここに祈るのである。