虎猫やけだし荒もの前掻きて後背高むる眼のすゑどころ

北原白秋『橡(つるばみ)』(昭和十八年)

                      ※「後背」に「あとぜ」とルビ。

 春の猫である。二句めの「けだし荒もの」というのは、確かに荒ものだなあ、と感心してながめている感じである。鳴き声がうるさくてかなわないと、私などは外に出て「こらっ」と追い払ったりすることもあるが、恋猫は、逃げ走り方も尋常の早さではなくて飛ぶようである。白秋の歌は、言葉でとらえた猫の緊張した姿態が、一幅の絵になっている。前肢を引っ掻くかたちの低い位置から背中の彎曲まで見る者の視線を上げてゆき、たちまち猫の視線と、そのじっと見据える対象に向かって筆を移してみせる。三十一語音の中に猫の動態を活写してあますところがない。

白秋には動物を詠んだ歌が多く、実に多種多様である。先日の某新聞のペットの写真紹介コーナーは、三月末が最終回で、蛇口から水を飲む猫のしかめ面が写っていて笑えた。こういう写真は、動物が人間と同じことをするところが面白そうな絵になる。その逆をやると、ゴヤの風刺画のような少々陰惨なものにもなる。

ここで思ったのは、われわれの生活のなかで動画が日常化するとともに、ちょっとした映像を用いて受けを狙う態度のようなものが、最近は何となく気分として安易に一般化してしまった気がする。ものをよく見るということは、言葉で描写しながら対象にせまってゆくということである。それなりに修行も修練も必要な世界である。白秋の歌は、そういう言葉の表現の世界の厚みが、われわれの認識や創造の質を支えているのだということを思い起こさせてくれる。