とどろきて風吹きゆする硝子戸に紅はきよし沈丁花のつぼみ

五味保義『此岸集』(昭和26年)

 緊密で重厚な上句を、さらに四句目と結句の重たい字余りでどっしりと受け止めて居る。土屋文明系の歌人には、こういう字余りが多く、慣れないうちは戸惑うが、字余り好きになると、一連に一つや二つはそれがないと逆に物足りなく感じるというような性質のものである。このあたりは、短歌の読者でも好みの個人差が大きいところだろう。

沈丁花は平凡な雑木で、同じ頃に咲く桜ほどのはなやかさや浪漫性もない。だから、歌になりにくい。でも、この歌では、硝子戸越しに見えたつぼみを「紅はきよし」ととらえた観察が光っている。

昭和の頃の日本家屋は、風が吹くと建具や窓がよく揺れたものである。一枚一枚木枠にはめられているガラスが、風が吹くといっせいにがたがたと音を立てて鳴って、大風の日は雨戸を閉めていても終日屋内がとどろくようだったことを、いま思い出した。現代のサッシの窓は、ときどきぴしっと音を立てるぐらいで、それが物足りないというのではないが、車の走る音をのぞいたら驚くほど無音の時がある。一人ですわっていると、森閑として孤独である。書物や、身近な動植物が近づいて来るのはそういう時だ。