さいかち 真


売るほどに霞みゆきたり縁日を少し離れて立つ螢売り

光森裕樹『鈴を産むひばり』(2010年)

(承前)もう一首並べて読んでみたい歌を引く。

 

売れ残る螢をつめれば幻灯機 翡翠の色にキネマを映す

 

二首並べてみると、マジックのような鮮やかさで螢のイメージが用いられている。こういう輪郭のはっきりした歌ばかりではないところに、この歌集の特徴があるのだが、初見の時から今になっても解き明かせない歌は前半に多い。仔細にみるなら、右の歌にも微妙な「疲れ」のようなものは感じ取れる。「売るほどに霞」んでゆくのだから。それも「少し離れて」。「売る」ことにそれほど熱心でもないのだから。それでも、それなりに売れてしまうのかもしれないが。ここには、世に流布するコマーシャル的な言説に生まれた時からさらされ続けた世代の、独特の身のかわし方、距離の置き方のようなものが、あるのだ。だから、何かを「売る」ことには敏感だ。売れないものが、「売れ残」ったものが、それを集めると、信じられないような美のかたちに変化する、というのは、何かを売らんがために懸命の、この世の秩序への究極の美的な抗議と言ってよいであろう。もっと言えば、売れ残った「文学」の生き残りのような短歌のなかに、そのような逆説的な力があると、作者は宣言しているのかもしれない。これは、現代における、酔うことを許されない浪漫的な精神の、精一杯の声なのだ。

 

母と呼ぶひとふたりゐてそれぞれが説くやさしさの違ひくるしき

中吊りのない車内です。潮風です。二輌後ろに母が見えます

 

しかし、右のような「母」が出てくる歌は事実的な背景をほとんど消してしまってあるので、その歌がそこにある理由がわからない。作者の自己史の中にある暗闇が暗示されているだけである。つまり私的な事情のようなものは、断片的にちりばめられている。けれども、それが一連の物語を形成することはない。作者の「私」の事情のようなものは、主要な関心事ではなくなっている。この作者にとってコラージュ的な「記憶」や「事実」の操作は、一連を構成するうえでの主要な方法である。これは現在の若手にみえる顕著な作風だと言えるかもしれない。