ほしいままに眠るといふこともあらざればじんじんと頭の芯のつめたさ

真中朋久『火光』(2015年)

※「頭」に「づ」とルビ。

 たぶん疲れはたまっているのだが、さりとて存分に寝足りるということもない日々なのだろう。点描される景色と、内言との響き合いのバランスが絶妙なので、読みながら質の良い映像作品を見続けているような錯覚を覚える。仕事の苦い感じの描き方は、小笠原豊樹訳のロス・マクドナルドの小説のような雰囲気もあって、冷えたしぶい感じの魅力をたたえている。その魅力は、作者が不断に短歌の表現技法への模索、韻律や句法の探求を真剣に続けているからこそ得られる感じなのであって、そこから独特の緊張感と緊迫した空気が生まれている。様式にもたれて言葉を繰り出している気配は、かけらもないのだ。きちんとモノを見るということは、見てしまったモノの意味に誠実に向き合いながら耐えるということを意味する。現在の情報化によって加速度がついた社会にあって、誰しも少なからぬ違和感を覚えながら日々を過ごしている。とりあえず出来(しゅったい)してしまった生の現実には、とにもかくにも対処して行くほかはない。短歌が短歌である所以を証明するように、〈情念を伴った認識〉として現前する景色・光景が、集中には次々と現れて来る。私はそのひとつひとつに接しながら、かすかなおののきをすら覚えるのである。