さいかち 真


アメリカの論の後追ふ学会が果てしのちわれは阿蘇を見にゆく

坂井修一『ラビュリントスの日々』(1986年刊)

 

三十年ちかく前の歌集なのに、言葉も素材もまったく経年劣化していない作品集である。坂井がこの時期に向き合っていた「アメリカ」的なものは、依然として盛んであり、ますます圧力と影響力の密度を高めつつある。作品集の解説では、永田和宏が研究と文学の両立、という坂井修一の生涯のテーマに言及している。

 

進退をもはや言ふべき時ならずさればとて澄むひと生でもなき

 

公的生活のなかで、ある位置をとった瞬間に、自分の生きる方向にやましさを覚えるという、潔癖な倫理感覚。作者は、こういう恥じらいの感覚を持ちながら、研究の方向性や企画の在り方をめぐって協議したり、争ったりして日々を過ごしている。これは一分一秒が、懸案の中に吊られているような「ひと生(よ)」である。考える時間は与えられるかもしれないが、基本的に激務である。その中で文学にかかわり続け、歌を作りつづけるということの意味は何か。それは彼らの作品を読んで、読者がそれぞれに受け止めればいいことだが、ひとつだけわかりやすい言葉を書いておくと、科学の技師であることと魂の技師であることは相似的である、ということだ。