松村 由利子


死ぬまでにせぬこと出来ぬままのこと考えてゐる箸洗ひつつ  

         近藤かすみ『雲ヶ畑まで』(2012年)

 

誰に禁じられたわけでもないけれど、自分が絶対にしないであろうことは、自分が一番わかる。また、してみたい気持ちはあるけれど、かなわぬことも何となく予想がつく。私たち一人ひとりは、自らの規範をもって生きているのだ。

坪野哲久の「われの一生(ひとよ)に殺(せつ)なく盗(とう)なくありしこと憤怒のごとしこの悔恨は」を思い出す。「殺」も「盗」も、字面だけ見れば法的な犯罪だが、恐らくこの歌では、例えば「その人がいなくなればよいと強く願うこと」「大切な人を誰かから奪うこと」のような、倫理的な罪を指すのではないかと私は解釈している。だから作者は灼かれるような「悔恨」を覚えるのだ。

この歌の作者も、同様の「悔恨」を少し抱えつつ、日常の営みを行っているのではないだろうか。「出来ぬこと」にはあきらめや悲しみが滲むが、「せぬこと」にはさらに複雑な焦燥があるかもしれない。「決してしたくないこと」であれば、考えるはずもないからだ。

結句の日常の動作はさりげないが、「箸」は焼かれて骨が拾われるときの場面を想像させ、初句の「死ぬまでに」と響き合う。ある年齢に達したときの感慨というものが、含みをもって詠われている。