白波のはたてかすめる志賀島再び人を恋いて来ぬれば

山埜井喜美枝 『多多良』(昭和53年)

 志賀島というと元寇を思い出す人も多いかもしれない。あるいは日本史で教えられた金印のことなど。「人を恋う」ということと「志賀島」という地名は、一首の中でなぜかうまく溶け合うようだ。作者の歌とのなれそめは「百人一首」だったということを、どこかで読んだ覚えがあるが、この歌は王朝和歌以来の恋歌の伝統につながっている気がする。「あとがき」を見ると、集名の『多多良』は、男を追って上京し、苦しい生活を支える日々を経たのちに、結局九州に戻ることになり、その男とも別れ、多多良浜の海の見える場所に移り住んで、新たな生活を始めたことに由来している。掲出歌の前後の歌を引く。

 

多多良川遡りゆく川水の光れるかたや秋逝かんとす

夕潮の力漲り満ち来るに没つ日の影差し及びたり

 

上げ潮に海の水が大きく動いて来る。そこに日没の陽があかく照らしてくる光景である。この時期の作者の心情を歌った歌は、次のようなものである。

 

恥ずかしきことばかりして生き継ぐよ水仕に荒れし手を取られいる

生きて襤褸死にても襤褸肩の上にまつぼっくりの落ちて転がる

一生に流す泪のおおかたを泣き尽したりもうわれは泣かぬ

 

「襤褸」は「らんる」、ぼろぼろのイメージ。こういう激しい心情の吐露を支えたものは、一冊の歌集が、一人の実人生をもって描き上げた真率な告白文学でなければならぬという価値観である。「アララギ」のリアリズムに由来する現実直視の姿勢を徹底したものである。これは後年の作者の作風とは異なる。前夫の歌人石田比呂志は、そういう文学精神を作者に叩き込んだ。でも再婚した夫の久津晃は、芸術派に理解を持つ金石淳彦(合同歌集『自生地』のメンバー)の弟子だったから、同じ「アララギ」系でも気風を異にする。作者は前衛短歌にシンパシ―を持てるだけの広い視野を手に入れるのである。しかし、私はいつも思うのであるが、前衛短歌、反母性の詩という故菱川善夫の引いた山埜井作品理解の線で作者の歌を読むのは、いいかげんにやめにしたいということだ。作者論として記念すべきものだから、砂子屋の文庫本にも再録されているのだが、新しい読者は、もっと別の視点から作者の作品を楽しむべきであろう。

話を元に戻すが、私は故久津晃氏にインタヴューをして直接うかがったことがあるが、出たばかりの塚本邦雄の歌集を、氏はすぐに手に入れて持っていたのだそうだ。そこから推しても久津の師にあたる金石淳彦がどういう歌人だったかは、わかるだろう。金石の弟子には、もう一人重要な歌人、内向派とでも言うべき金井秋彦がいる。この黄金の九州の「アララギ」―「未来」系人脈のなかに山埜井喜美枝もいるのである。山埜井さんには土屋文明の歳をこえて歌を作り続けてもらいたいと思う。