惡意には二、三パターンあるけれど玉子のやうに見わけつかない

       堀田季何『惑亂』(2015年)

 

世界には「嘘」や「罪」があふれており、悪意というものも確かに存在する。それを否定するほど無邪気ではいられないのだが、さて歌にしようと思うと難しい。具体的な悪意について詠おうとすると、どうしてもそれを受けた自分の、被害者としての立場がクローズアップされてしまう。そうかと言って抽象的に詠おうとすると、歌全体が箴言のようになってしまう。

悪意というものには複数のパターンがある、と看破してみせた作者の知性に惹かれる。敵対心だとか嫉妬だとか、多分それは「二、三」ではすまないのだが、取り敢えずざっくりと切ってみせた手腕が見事だ。

「玉子」というノスタルジックな表記が、昔の料理本や石井好子のエッセイなどを彷彿させ、「悪意」との対照が際立つのも巧い。そういえば昔は、卵の鮮度を確かめるために光に透かしてみるとよい、などと言っていた。

「さあて、この悪意はどのパターンなのかしら」……動揺することなく、「惡意」を手にとって透かしてみようとするような、そんな詠いぶりが好もしい。