さいかち 真


一太郎は少数派なりそれでいいさうしていつも片隅にゐる

今野寿美『雪占』(平成二十四年三月刊)

 「一太郎」は、日本の会社が作ったワープロソフトの名前。手作り感覚で文書を作り込んでいけるので、学校関係者には今でも愛好家が多い。何年か前には旧仮名変換もできるようになっていた。でも、「ワード」のシェアの方が圧倒的だから「少数派」、ということになる。私は職場のコンピューターの都合でもっぱら「ワード」を使うようになっているが、時々以前使っていた「一太郎」が恋しくなる。

掲出歌の「それでいい」、「さうしていつも片隅にゐる」というのは、組織の中や社会の中での人間のあり方にも通ずるものがあって、作者は自分自身もそういうあり方に心をひかれるところがあるのだろう。「一太郎」のようなタイプの人は世の中に大勢いて、前回引いた正宗敦夫などはそういう性格の人だろう。だからと言って無視されていいわけのものでもないので、「いつも片隅にゐる」存在意義はあるし、それなりの自己主張も持っているのである。

 

「國文學」すでに休刊「解釈と鑑賞」の灯も消ゆる秋なり

 

先日文部科学省の某大臣が、大学の人文系の学部を再編統合すべしと言って物議をかもした。いま全国で「文学部」を設けている大学は、ずいぶん数が少なくなった。みんな訳の分からない片仮名の学部に名前を変えて再編統合され、かつての文学部で担われていた研究分野はいったいどこに行ったのか、よく探さないとわからない。和歌や近代短歌にかぎってみると、専門の研究者がきちんといる大学は限られており、いたとしても非常勤講師だったり、専門以外の分野を担当させられている場合が多い。雑誌「國文學」も「解釈と鑑賞」もそういう時代の波にさらわれて消えてしまった。

文化というのは、引き継がれていかないと二十年か三十年で消えてしまうと、エーコとカリエールが対談の中で言っている(『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』)。近代短歌や近代俳句、現代詩の研究についても、同じことが言える。いま生き残っている文学部は、今後「いつも片隅にいる」状態を堅持していかなくてはならないのである。何でも経済効率優先で、口先だけ日本文化の遺産だとか、観光立国だとか言っても、基盤をなす所が枯れてしまっているのでは、どうにもならない。最近の公立図書館は、古い本をどんどん廃棄している。特に利用度数の少ない書籍は、続々と廃棄されているので、少数派の分野の関連蔵書の今後が心配である。今の日本の大学が引き取らない著名な文学部系統の学者の蔵書は、海外の大学に打診してまとめて引き取ってもらった方がいいのかもしれないとも思う。欧米はもう当たり前だから、東南アジアの大学はどうだろう。

作者の歌の話に戻る。この歌集は東日本大震災の時の歌を多く収めている。「あとがき」に「現実が重すぎ、被災してもいないのに災害のことを云々するのは不遜であるとも感じた」とある。今になってみると、やっぱり言うべきことは言っておいた方が良かったのだと思う。しかし、繊細なためらいもそれはそれで価値のあるものだったと思いたい。次のような歌を読むと、平生の作者の生きることについての感じ方が、ひたひたと伝わって来るのである。

 

今日いつさいことば発してゐないこと鳥でいい鳥がいいこころをつつむ