とほくにて戦報をいふラヂオありしづかにもえて音なきもみぢ

太田水穂(歌集『螺鈿』より:木村雅子編『太田水穂歌集』2015年刊所収)

 ずっと昔のことのように、戦争のことを考えるのはやめようと思った。今度のパリの事件のニュースを聞いてそう思うのである。この歌は、昭和十二年の歌である。昭和十年代の作品を、その時代の人の気持ちになって読む事はできないものか。自分の現在の感情の動き方と同じ位相にあるものとして、過去の感情を過去のものとして突き放さずに、自分の今の気持ちとつながりがあるものとして読むということが、できるのではないか。すぐそこに戦争がある。怖ろしい時代になったものだ。日本だけが無事のわけがない。だから、こういう歌も一気にリアルになったのだ。「とほくにて戦報をいふラヂオあり」は、「とほくにてテロを伝ふるラヂオあり」と同じことだ。

この歌の話ではないが、書く。自分の生きて居ることが、出口のないトンネルにいるような気がする人たちのことを思うのは、つらいことだ。あんまり悲しい事やつらいことがあると、人間は壊れてしまうのだろう。詩歌や文学というものは、そういう人たちにとっても、慰めであるはずだとは思うのだけれども、それは常日頃そういうものに接することができる環境にいて、そういう教育を受けてきた場合に限られるのである。 人間は誰しも、言っても他人にはわかってはもらえないような思いを抱えて生きているのだと思うから、出口のないトンネルのなかにいる者が、突然暴力をふりかざしたりすることは、とうてい認められないのである。しかし、彼らをどうやったらその暴力から引き離す事ができるのだろう。君の書いているものなど、お気楽なものだと言われてしまえば、まったく一言もないのであるが。