少しずつ角度違えて立っている三博士もう春が来ている

服部真里子『行け広野へと』(2014年、本阿弥書店)

 

「三博士」から、多くの人が「イエス・キリストが生まれたとき訪れたという3人のことかな?」と泰西名画的ななにかを思い浮かべそうです。静止した図像に「もう春が来ている」と時間の経過がもちこまれることで、三博士が動きだして位置関係をさらに変えるような気配をおぼえます。

クリスマス(降誕祭)のあと、いわゆる「十二夜」を経て迎えるエピファニー(公現祭)が、1月6日。東方の三博士が幼子イエスを礼拝したその日を「春」と呼ぶとき、日本ならではの「初春」とか「松の内」といった季語が連想されないでしょうか。

永井陽子さんの歌〈あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ〉のように、西洋と東洋の交感を描いたファンタスティックな一首ととらえてもよいでしょう。

掲出歌の作者・服部さんの次の歌が、昨年後半の短歌誌ではなにかと話題になりました。今年も続きそうですね。

 

水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水

「塩と契約」(「短歌」2015年4月号)

 

論点が作品そのものから作者・読者の態度へ移るにつれ議論に興味がもてなくなりましたが、開花した水仙の形状が伝声管に似ていることと「盗聴」との呼応を、おもしろく読みました。「水」への展開により、その呼応のピントがぼけてしまった感じ。ではピントの合った歌とは? 考えてみたいところです。

 

……という調子で、わりと最近の歌や、最近の評論に引用されたむかしの歌などについて、どなたかへの手紙のように書いてゆければと思います。1年間、よろしくお願いいたします。