生くるため不可欠なものにありし頃一丁の斧美しかりけむ

香川ヒサ『ヤマト・アライバル』(平成27年、短歌研究社)

この作者の歌はいつも私を困惑させ、そして納得させ、最後に感動させる。

ゲルマン諸民族がヨーロッパに侵入した頃、ヨーロッパ大陸の殆どは深い森林に覆われていた。彼らは少しずつ森林の樹を伐り倒し、木の根を掘り起こし、土を耕し、種を播いて牧草を育て、それを餌として牛などの家畜を飼育してきた。究極のところ、ヨーロッパの歴史は森を切り開き、牧草地を拡大していくことの歴史だったという人もいる。彼らにとって、開拓した土地の向こう側の森は野獣や妖精や魔物が棲む異界であった。そう言えば、ヨーロッパの童話には、「ヘンデルとグレーテル」「赤ずきんちゃん」「ピーターパン」など、森を舞台にしたものが多い。斧は生活に密着しおり、森を切り開いて生きていくための不可欠なものだったのだ。

中世のヨーロッパだけではない。昭和三十年代前半頃まで、能登半島に少年時代を過ごしていた私の周囲でも、どこの家にも斧はあった。さすがに囲炉裏は少なくなっていたが、まだガスは普及しておらず、炊事は主として竈や七輪であったし、風呂も薪で沸かしていた。大きな木材を、乾きやすく割り、更に燃えやすく割くために斧が必要だった。まさに「生くるため不可欠なもの」だったのだ。

斧の機能は対象を切断することである。そのための構造は基本的には片手又は両手で持つための柄(主として木製)の先に重くて厚い刃(古代は石だったりもしたが、現在では多くは金属製)に装着しただけのシンプルなものである。新幹線の流線形を持ち出すまでもなく、機能性を極限まで追求すると、そのフォルムは自ずと美しくなってくる。斧の場合は、その美しさは対象を叩き切るという凶暴な機能を持ち、その機能性を追求した結果、あのようなシンプルで美しい姿になった。更にその機能は、人間に対して使われる時に相手を殺傷するという危険さを持つことを思うと、この一首が、美しさと共に危うさや凶暴さを帯びてくることに気が付く。そして、人間の歴史はまさにそのような斧に象徴されるのだとも思う。