いくたびも暗証番号拒否されて機械の横に寄りかかりたり

落合けい子『赫き花』(2015年、現代短歌社)

銀行のATMコーナーだろうか。お金を引き出そうとして、カードを挿入して暗証番号を入力する。ところが、番号が違うという表示が出て、お金が引き出せない。キーを打ち間違えたかと思い、再度入力するが、また拒否される。はて、別の番号だったかと思い、更に思い当たる別の番号を入力するが、やはり拒否される。そこで作者は途方に暮れて、脱力したように、機械に寄りかかってしまう。

金融機関などは、生年月日や電話番号などを暗証番号としないように求めている。カードを身分証明書と一緒に紛失した場合容易に推測し得るからである。また、いろんなカードで同じ番号を使わないようにも求める。しかし、利用者の方は、どうしても自分にとって覚え易い番号を設定するし、金融機関毎に番号を変えることも大変である。もっとも最近は、そのような複数の暗証番号を管理するソフトもあるようだが。

この一首、上句は多くの人が体験することだが、下句の断絶感、虚脱感、脱力感が面白い。この場合、「面白い」という言葉が適切だとは思わないが、他に適切な言葉が思い当たらないので、とりあえずそう言っておく。怒ったり、嘆いたりするのではなく、文字通り、力が抜けたように機械の横に寄りかかってしまうのである。現在の状況は、寄りかかって解決する問題ではないのだが、思わず力が抜けてしまうのである。

かつて短歌とは、高らかに歌い上げる詩形であった。喜び、理想、希望を、また悲しみや絶望、怒りをさえも格調高く歌い上げる詩形であった。読者もまたそのような高らかに歌い上げる短歌に深く陶酔した。しかし、ある時期から、我々は短歌で高らかに歌い上げることが何か気恥ずかしく思えてきた。歌壇の流れがそうであったし、歌人個人個人の内部においてもそうだったと思う。歌い上げない、敢えて歌い下げることが、我々の本当の感情に沿うように思えてきたのである。等身大、或いはそれ以下の自分を表現することが、真実を突いているように思えてきたのである。私がそのことを意識したのは小池光の歌集『日々の思い出』(1988)であった。現代では、敢えて歌い下げる短歌、いわば「脱力系短歌」ともいうべきものが歌壇の一つの、しかしかなり大きな流れになってきているように思える。この作品もそんな流れの中に位置づけられよう。