てのひらをくぼめて待てば青空の見えぬ傷より花こぼれくる

大西民子『無数の耳』(1966年、短歌研究社)

 

 

一昨日に短歌を紹介した田中あさひさんの著書『大西民子 歳月の贈り物』(短歌研究社)より、よく知られた歌を。この歌の先行作品として田中さんは、

 

ゆがみたる花火たちまち拭ふとも無傷の空となる事はなし(斎藤 史『密閉部落』)

 

を仮定しています。

空に傷、という発想が核になるのはたしかでしょう。ゆえに、どこからともなく落ちてきた花びらは、血。それは自分の血でもあり、てのひらに受けることで自分の心の傷を意志的に見つめようとするプロセスの歌と感じられます。

意志的というのは、「くぼめ」る動作が能動的だからです。

 

きりのなき仕事区切りて中心がくぼむ朱肉も机にしまふ

潮鳴りの音を鎮めて眠らむに底知れぬ窪みなどが見え来る

 

くぼみという形状はここで、朱肉なり睡眠なりの、やわらかな感覚をともなっています。

田中さんによると、『無数の耳』には「性」を思わせる歌が(同年代の中城ふみ子らほどは目立たないにせよ)見られるとのこと。すると冒頭の歌も「くぼめて」の部分に、やわらかな肉感を見いだせそうです。「傷」も、くぼみのバリエーションでしょう。

 

手のきずからは

みどりの花がこぼれおちる。

わたしのやはらかな手のすがたは物語をはじめる。

 

大手拓次の詩「手のきずからこぼれる花」、最初の3行です。

この詩と大西さんの歌に接点があるかどうかわかりませんが、ふたりとも北原白秋の系譜の人ですから、なにかしら共通する官能性があるのではと考えました。