サリンジャー死にし話題は牡蠣の殻開けて啜らむとする間に終る

真野 少『unknown』(2015年、現代短歌社)

 

 

サリンジャー死せりと聞きしそらみみの何ほほゑまむ秋の葛切

塚本邦雄『波瀾』

 

春風のなかの鳩らが呟けりサリンジャーは死んでしまった

小島なお『サリンジャーは死んでしまった』

 

塚本作品はサリンジャーが亡くなる2010年1月よりずいぶん前のもの、小島作品は逝去後のもの。サリンジャーは「死」とセットで詠まれやすいようです。なぜでしょうか。

私が学生だった1980年前後にも、アメリカの作家サリンジャーに思い入れをもつ同級生が周囲につねに一人二人はいた気がします。何人も、ではありません。

頭の回転が速く大衆と相容れないタイプの若者にとって、天才肌の彼の小説、その登場人物である少年少女は青春のアイコンでした。

彼の活動期間は短く、後半生は隠遁状態であったため、読者にとって「作家サリンジャー」はすでに死んだも同然でした。塚本さんの「秋の葛切」は、いずれ実際の訃報から受けると予想される“何を今更?”感のメタファーです。

真野さんの「牡蠣」はメタファーでしょうか?

その殻を開け中身を啜るという行為は生々しく、ものを食べるという蛮行によって青春の感傷がたちまち葬られた、そんな無情さがあります。「牡蠣」は現在の、現実そのものです。

 

食い終えて瓦のへりに嘴太鴉[はしぶと]はしごき拭えりその嘴を

汁碗に盛る牛の骨つかみてはしゃぶり飽かざり台湾乙女[おとめ]

 

『unknown』にはこのように身も蓋もない食の表現が多く、豪胆にして無残な読後感がありました。