誤植あり。中野駅徒歩十二年。それでいいかもしれないけれど

大松達知『アスタリスク』(2009年、六花書林)

数年前に話題になった映画「おくりびと」にこんなシーンがあった。本木雅弘扮する主人公が失業して故郷に帰り、仕事を探す。たまたま見た求人広告に「旅のお手伝い」とあったので、旅行代理店だと思って応募に行ったら、そこは葬儀社で、唖然とする主人公に対して、山崎努扮する社長が、「あ、これ抜けている」といって広告に文字に付け加え「旅立ちのお手伝い」と直した。記憶で書いているので細部は違うかもしれないが、おおよそそんな話であった。これはたった2字の脱字(多分、社長の故意)が一人の人生を変えてしまった例であるが、実に誤字脱字、誤植は恐ろしい。

掲出歌、思わず笑ってしまう。初句で作者が「誤植あり」と断っているが、これは断らなくても誰にでも誤植だということは解るであろう。不動産の広告で「徒歩十二分」の「分」が「年」に誤植されてしまったのだ。「おくりびと」の脱字は人生を変えてしまったが、この誤植で人生を変えられた人はいないであろう。

そして作者は「それでもいいかもしれないけれど」と言っている。「十二分」でも「十二年」でも大差はないということなのだ。朝夕の通勤通学に片道十二年をかけて駅まで歩く、この不条理が何とも楽しく、夢がある。最近の観測によって(137.98プラスマイナス0.37)億年とされているこの宇宙の年齢に比較したら、12年と12分の差(計算してみたら6,307,188分)の差はいかほどのものもない。

作者は広告の誤植を責めるより、朝夕片道12年かけて駅まで歩くというこの奇想天外さ、バカバカしさを讃え、そんな人生があってもいいではないかと言っている。何とも痛快である。

職住を満たしてやれどクサガメは外の世界をしきり見たがる

なにゆえかひとりで池を五周する人あり算数の入試問題に

その人は権力のケンと言ひしのち権利のケンと言ひ直したり

この作者の「発見」にはいつもはっとさせられる。