どのひとも掌(て)のちさき板見つめをり板のむかうの海や砂漠を

日置俊次『落ち葉の墓』(平成27年、短歌研究社)

最近は電車に乗って向こう側の席を見ると7人掛けのシートの7人のうち5人程度は黙々とスマートフォンを操作している。ある意味では異様な光景である。ここ数十年のIT技術の進化は、人類史上においてかつての産業革命にも匹敵するような生活革命であろうと思う。それほど我々の生活スタイルを一新してしまった。その一つがスマートフォンである。一般家庭へのパソコンの普及も生活に大きな変化をもたらしたが、スマートフォンは更にそのパソコンの機能を自由に持ち歩きできるようにしてしまった。今や我々は電車の中においても、スマートフォンを操作して遠い遥かな海や砂漠の画像を自由に思う存分見ることができる。そしてそのスマートフォンがかまぼこ板のような「ちさき板」であるのだ。

しかし、我々はその利便さと引き換えに失ってきたものも少なくない。例えば人と人との繋がりのようなものも。沢山の人が乗合す電車の中で誰も声を発することなく、ひたすら「板のむかうの海や砂漠」に没頭している。「ちさき板」、「板のむかうの」という辺りに単純な文明批評ではない作者の深い気持ちが込められている。それは皮肉、悲しみ、憤り、同情、絶望、それらの中のどれかであろうし、また、それらの全てなのかも知れない。

ジグゾーパズルのピースみなひとのかたちして嵌めをへるときひとは消えゆく

片言の日本語話すアジア人の娘がゆでるきしめんあはれ

こはばりて積み木と見ゆるわが影が渋谷の人の群に崩さる