皿汚しながらひとりの昼餉終へ誰にともなく手を合はせたり

栗木京子『水仙の章』(2013年、砂子屋書房)

 

 

「いただきます」「ごちそうさま」と言いながら合掌するしぐさ、どのくらいポピュラーなんでしょう。

ある調査によると、「いただきます」のとき手を合わせる人は全国で6割強。地域別では西日本ほど割合が高く、浄土真宗との関連も考察されています。

自分のことをふりかえると、家庭のしつけというより、小学校での習慣が大きかったようです。いわば「起立、礼、着席」と同じような集団行動の一種で、いまでも人にごちそうになるときなど、わりと軽いノリでやっている気がします。

掲出歌は会食や団欒の場面ではないので、「ごちそうさま」という発声はたぶん伴っていないでしょう。しんとした歌に、初句の「皿汚し」がややノイズと映ります。

前後には次の歌が配されています。

 

戸籍簿も家も流されたる遺体安置されをり水仙添へて

カップ麵の蓋押さへつつ思ひをりわが部屋に火と水のあること

 

すると「皿汚し」は、皿を洗うために水を使うことを贅沢と感じる大人の洞察であることがわかってきます。

生活のための火も水も不自由な震災被災地の状況、不特定多数の犠牲者を思う歌として、発表当時は震災詠と呼ばれました。

歌の“ふくらみ”が見えてくるのは、すこし時間が経ってからのようです。いま読むと、仏壇やお墓の前でもないのに手を合わせる動作が、どこか子どもっぽい。

人を長くなごませ、なぐさめる歌には、こんなふうにちょっと間の抜けた感じが欠かせないのではと思えます。