生きんため夫入院し残さるる時間のために父退院退す

松尾祥子『月と海』(2015年、柊書房)

この歌集の間に作者は二人のかけがえのない人を失った。夫と父である。まだ五十代の夫は病んで、入院する。それはこの先まだまだ生きていくためである。早く元気を取り戻して、妻子を慈しみ続けるためにである、日本人男性の平均寿命が80歳を超えた現在、50代はまだまだ働き盛りである。当然、治療を受け、健康を回復し、これからも更に生き続けるために入院するのである。

一方、丁度その頃に作者の父は退院する。年齢は80台か。おそらく平均寿命は越えているのであろう。酷いようだが、これからの生活は残された時間を精一杯生きるためと言わざるを得ない。入院していてももう積極的に治療する意義がなく、自宅で療養するために退院したのであろう。

作者にとって大切な二人である夫と父の人生が一瞬時空で交差するような印象を受ける一首である。対句表現がその構図を明確に読者に提示する。抑制気味の表現ながら、悲しみと不安に満ちた作者の心が滲んでくる。

そして、しばらくして父は子や孫に見送られながらこの世を去った。一旦、健康を回復したかに見えた夫もまた急死した。身近な男たちが次々と病み、死んでゆく姿を作者は心に深い悲しみを抱えながら、慈母のように見つめている。そしてその心を支えたのが短歌である。歌集「あとがき」で作者はこのように書いている。「どんな時でも、目をそらさずに、歌を詠むことで自分を保ってきました」と。

星月夜立つ力失せ横たわる父にしづかに犀が来てゐる

「気をつけて帰れ」死に近き父言えへり われは帰らな病む夫のもと

夫の友に夫の急逝伝へたり夫の名前でメールを送り

死にたくて死に得ぬ人よ 生きたくて生き得ぬ人よ 海を照らす月

歌集タイトルはこの最後の引用歌から取られた。