少し長めに生きたることも葡萄パンにまじる葡萄のごとき確率

杉﨑恒夫『食卓の音楽』

(1987年、沖積舎/新装版 2011年、六花書林)

 

 

少し長め、という言い方の慎ましさに惹かれます。「少し」をどのくらいの月日と考えるかは、個人差あると思います。

作者は1919年生まれで、84年まで東京・三鷹の国立天文台に勤務。あとがきには82~87年の歌を収めたとあり、ご退職前後の作ということになります。

ぶじに勤めあげたことの充足感が、その後の時間を人生のささやかな付録のように感じさせたのでしょうか。天文台にいらした方ですから、宇宙時間と対比しての「少し」だったかもしれません。

老いを知らず亡くなった人と、老いを知った人の違いは「少し」。

だんだん、「少し」が、慎ましさというよりは厳密な計量のまなざしをあらわしているように思えてきました。ほの甘い「葡萄パン」を経て「確率」という語に着地するのは、甘くない。

葡萄パンの比喩は略された表現ですが、自身の生を、たまたま干し葡萄が“少し多め”のパンのようにとらえているのでしょう。

 

食パンの白い内部を通過するパン切りナイフむずがゆい春

簡潔なるあしたの図形 食パンに前方後円墳の切り口

 

ごはんならぬ食パンという素材がかもしだすモダンな雰囲気のなか、切断の感覚や墳墓の連想がさりげなく異質。「通過」「簡潔」「図形」という硬質の漢語も、「確率」と同様、ある種の鋭さをかもしだしているようです。

むしろ次のようなやわらかい歌に、その鋭さはストレートに出ています。

 

つつかれてヨーグルトに沈む苺 やさしき死などあるはずもなく