たそがれの舟に原子の火をのせてあなしづかなるあそび女がゐる

池田はるみ『正座』(2016年、青磁社)

 

 

歌謡調のこの歌、岡井隆さんの〈原子炉の火ともしごろを魔女ひとり膝に抑へてたのしむわれは〉が意識されているでしょうか。

福島原発事故以後のフィクションでは、放射性物質が人心を惑わす美女に擬人化されたり(萩尾望都「プルート夫人」他、『なのはな』所収、小学館)、被災者救援チャリティのアダルトビデオ制作という設定で戯画化されたり(高橋源一郎『恋する原発』講談社)と、女性=“男性に見られる性”のイメージによる語りが見られました。

池田さんの「あそび女」は、すこし違う気がします。「原子の火」そのものというより、火のはこび手のようなたたずまい。

 

ふねに乗る遊女の姿を思ひつつ『梁塵秘抄』を読める秋の日

あなたふとほとけの夢を見むとして人の音せぬ暁はなし

 

『梁塵秘抄』の〈ほとけは常にいませども/うつつならぬぞあはれなる/人のおとせぬあかつきに/ほのかに夢にみえたまふ〉が、現代人の生活に読みかえられています。

人が「ほとけ」級のパワーを求めた20世紀、核は学問から信仰の対象に変わってしまった。そんな考えも浮かびます。

平安時代末期の「あそび女」は、遊女というより芸人(歌手)に近い存在だったそうです。すると人に見られるだけでなく、人の世を見るアーティストのまなざしももちあわせていたことでしょう。

感動詞「あな」がむしろワンクッションとなり、「ほとけ」への欲望に立ち会う観察者のクールな雰囲気をかもしだしているようです。