三井 修


飼ひ主はわが家の犬を甲として見かくる犬を乙と決めこむ

本阿弥秀雄『傘と鳥と』(ながらみ書房、2013年)

 愛犬家同士の散歩であろう。すれ違う際に、犬同士もそうかも知れないが、飼い主同士もお互いに意識する。意識するといっても、相手の人間のことではなく、自分の連れている犬と相手の連れている犬を反射的に比較してしまうのだと思う。

 昔は「甲」や「乙」と言えば、兵隊検査か学校の成績だったようだが、現代では契約書の文言でよく見かける。契約書の書面で最初に出て来る当事者の名前の後に括弧して”(「以下「甲」という)”として、次に出て来る当事者をやはり括弧して”(以下「乙」という)”とする。長い人名を何度も記載する煩わしさを避けるためであるが、当然、「甲」の方がより重要な立場を占める。「甲」や「乙」などという堅苦しくてものものしい法律用語が、このようにさりげなく使われると面白さになる。

 この一首、すれ違う際に瞬間的に犬同士を比較してしまった作者は、心の中で自分の飼い犬の方に軍配を上げる。あの犬も悪くはないが、この犬の方がより賢く立派で可愛い、などと思ってしまうのである。客観的な優劣ではない。無条件に自分の飼い犬を贔屓してしまうのである。人情としては当然そうであろう。「決めこむ」にその強引さが端的に表れている。しかし、その強引さは決して反感を買わない。どこかほのぼのとしてしまう。読者の誰もが微笑みながら読むであろう。作者は自分を自分を偉そうに見せようとは思わない。少しばかり戯画化をしてはいるが、あくまで等身大の自分を歌おうとしているのだ。そのあたりがこの一首の眼目だろうと思う。

 短歌は宇宙や世界を歌うこともできる。人生の苦悩や悲劇を歌うこともできる。しかし一方で、このような日常の中の良質のユーモアを歌うこともできる。たった三十一文字の短い詩型であるが、このように守備範囲は極めて広いということを改めて思される。

   誰ももう筆を入れねど筆箱といふ柔らかき和語をいとしむ

   ブラックで珈琲をのむ人とゐて引け目を感ず砂糖要るわれ

   泣きやまぬ赤子がわれの後に付く二礼二拍手してゐる間に