江戸 雪


壮年期過ぎむとしつつ一人称「われ」といへどもはるかなる他者

村木道彦『存在の夏』(2008年)

ひとはいつごろ<わたくし>という呪縛から自由になれるのだろう。
いや、そんなときはこないのかもしれない。

「壮年期」とは、だいたい20歳代後半から40歳代半ばあたりだろうか。
強烈な自愛の青年期をすぎて、「壮年期」は自らをようやく冷静に見つめられるようになる。さりとて冷静になったからといって、自愛の感情が消えるわけではないし、生活におわれているとなおさら<わたくし>を捨てきれない気持ちが強くなったりもする。

<わたくし>はさまざまな事物やひとに影響され、それらを内包しながら変化していく。そうすると、もともとの<わたくし>がどうであったかなんて、どうでもよくなる。そんなとき、いちど<わたくし>を手放してみることができるのではないか。
しかしきっと、ただちに<わたくし>は手もとに戻ってくるのではあるが。

この歌にも、そんなふうに自分を見つめ、もてあまし、受容し、憎み、愛する姿がうかびあがる。
「はるかなる他者」という表現には、やはり自愛がこめられているようにおもう。
手の届かない存在であるがゆえの憧れ。きっとこの「はるかなる他者」は、夢のような自分、あるいは理想の自分なのだ。

つきはなそうとしつつ、親愛なる<わたくし>。
そんな葛藤をもちつづけるひとはきっと魅力的であるにちがいない。